ハイホーの沖縄散歩=南部地区=
御殿山(うどぅんやま)のある場所は、昔、海辺だったことから浜の御殿とも呼ばれていました。琉球国由来記によると、この御殿山にはアマオレツカサと言う神が祀られていて、天女が舞い降りた場所とも記されています。王や聞得大君(きこえおおぎみ(注1))が園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)を出てから、最初に寄るのがこの場所です。聞得大君の御新下り(おあらおり(注2))の時には首里城から出て初めての休息地になり、仮御殿も建てられたそうです。 国王や聞得大君の聖なる島・久高島参詣の発着地でもあります。なお、「御殿(うどぅん)」とは、王子、按司(あじ)の邸宅のことで、そのまま按司家を指す尊称にも使われました。按司は、もともとは地方の首長やその家族など、支配者階級にある人物の称号でしたが、第二尚氏王統下になると、王子に次ぐ王族(王家の分家の当主)の称号へと変わっていきました。「按司」は、「あんじ」とも読みます。「あるじ」が転訛したものでしょう。
旧暦の6月15日、稲の収穫の感謝と綱曳の成功を祈って5ヶ所の拝所にお供え、お参りをするそうです。5ヶ所の拝所とは、東名大王(あがりなうふす)、宗之増(そうぬまし)、阿知利世主(あちりゆうぬし)、御殿山(うどぅんやま)、親川(うぇーがー) です。
現地の由緒書きには、つぎのとおり記されています。
名前の由来は、山原から首里の御殿に納める木材の置場に指定されたことによる。おもろ(注3)では「よなははま きこゑ 大きみ やちよ かけて と よまさに 又 あきりくち とよむ大きみ やちよ」とうたわれている。『球陽・遣老説伝』に『漂流の大君加那志(おおぎみかなし)』として由来がのっており、戦前は立派なお宮があり、尚家の人々が年一度お参りしていたといわれる。聞得大君(きこえおおぎみ)の御新下り(おあらおり)の際には最初の休息地となり御仮家が設けられた場所である。現在も町の行事や東御廻り(あがりまうーい(注4))のコースにもなっている。
(注)は、すべてサイトの管理者の追記です。
現地の案内板 | この橋を渡って「与那原親川」に向かう(振り返って撮影) |
(注1) 聞得大君…琉球王国の最高位の女神官。王女または王の姉妹が就任しました。国王を守護する「姉妹神」(おなり神)として、国王の長寿・国の繁栄・五穀豊穣・航海安全を祈願しました。
(注2) 御新降り…御新下りは聞得大君の就任儀礼のことで、琉球最高の御嶽である斎場御嶽で行われました。
(注3) おもろ…歌の意で、沖縄方言の「思い」から来た語。沖縄の古い歌謡。首里王府により編纂された歌謡集「おもろさうし」に多くのおもろが収められています。
(注4) 東御廻り…琉球王朝時代に、国王が創造神・アマミキヨが二ライカナイから渡来して住みついたと伝えられる霊地を巡拝する行事で、王国の繁栄と五穀豊穣を祈願する行事として始められたといいます。その後、民間へと広まっていったそうです。守礼門と首里城歓会門の中間にあり、現在は世界遺産になっている「園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)」で旅の安全を祈願してスタートし、そこから首里から見て太陽の昇る方(東方/あがりかた)、つまり現在の南城市佐敷、知念、玉城方面へと聖地は続いていきます。
地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 御殿山 与那原町立図書館の東にあります。もともとの御殿山は、戦前まで小高い丘の上にありましたが、沖縄戦で焼失しました。場所を移して再建されましたが、その後も青少年広場建設のため、現在の場所に移されました。
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