=東御廻り=

受水・走水(うきんじゅ・はいんじゅ)


受水・走水
受水全景と、手前は御親田


玉城字百名(たまぐすく・あざひゃくな)の海岸近くにある二つの泉は、西側を受水(うきんじゅ)、東側を走水(はいんじゅ)といいます。受水とは、緩やかに流れる水、走水は、早く流れる水という意味です。実際に受水はゆっくり水が流れ、走水は勢いよく流れていました。下流に御穂田(みふーだ)と親田(うぇーだ)とよばれる神田があり、琉球における稲作発祥の地と伝えられています。旧暦1月の最初の丑の日には、玉城字仲村渠(たまぐすく・あざなかんだかり)区の人たちによる、親田御願(うぇーだゆうがん)と呼ばれる田植えの儀式が行われ、儀式は南城市の無形民俗文化財に指定されています。首里城の東方にある霊地を巡拝する、東御廻り(アガリウマーイ(注1))の行事で訪れる拝所の一つです。



西側の受水(うきんじゅ) 東側の走水(はいんじゅ)
由緒書き 御穂田の手入れは行き届いていませんが穂をつけた稲でした。


現地の由緒書きには、次のとおり記されています。
受水 走水(神名・ホリスマスカキ君ガ御水御イベ)
ここは沖縄の稲作発祥の地として伝えられている。
『琉球国由来記』(1713年編)によれば昔、阿摩美久(アマミキヨ(注2))がギライカナイ(注3)(海の彼方の理想国)から稲の種子を持ってきて玉城親田、高マシノシカマノ田に植えはじめた。又、伝説によると昔、稲穂をくわえた鶴が暴風雨にあって新原村の「カラウカハ」という所に落ちて死んだ。種子は発芽してアマミツによって受水走水の水田(御穂田)に移植されたという。
この地は東御廻いの拝所として霊域になっていて、旧正月の初午の日には、田植えの行事「親田御願」が行われている。
昭和52年7月21日 指定
南城市教育委員会



(注1)東御廻り…琉球王朝時代に、国王が創造神・アマミキヨが二ライカナイから渡来して住みついたと伝えられる霊地を巡拝する行事で、王国の繁栄と五穀豊穣を祈願する行事として始められたといいます。その後、民間へと広まっていったそうです。守礼門と首里城歓会門の中間にあり、現在は世界遺産になっている「園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)」で旅の安全を祈願してスタートし、そこから首里から見て太陽の昇る方(東方/あがりかた)、つまり現在の南城市佐敷、知念、玉城方面へと聖地は続いていきます。

(注2)アマミキヨ…太陽の神が下界に「アマミキヨ ・シネリキヨ」の2神を送り、国造り、島造りを命じたとする琉球の神話。九州から奄美を経て沖縄に渡来した種族、つまり、アマミ(奄美)のキヨ(人)という説もあります。

(注3)ギライカナイ…ニライカナイのこと。琉球諸島で海の彼方や海底にあると信じられる理想郷の名称で、来訪神信仰の一つ。ニルヤカナヤともいわれ、東の水平線の彼方にあるとされます。神々が来訪してこの世の人々を祝福する儀礼や伝承は南島各地にみられ、稲や粟の種子も元来ここからもたらされたといわれています。「ニライ」は「根の方」、「カナイ」は「彼方」を意味する説など、諸説あります。

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 受水・走水 国道331号線の百名橋の交差点(信号あり)を海に向かって進むと、左に浜川御嶽800mの標識とCafeシーサイドの看板がありますが、ここは直進し、みーばるマリンセンターの看板で左折すると、矢印のついた受水・走水の道標があります。迷惑にならないように路駐します。直進すれば、浜川御嶽、ヤハラヅカサにも行けます。受水・走水へは、道標のある飛び石畳の道を海と反対方向に向かいます。



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