=東御廻り=

久高(くだか)島


ハビャーン
島の東北端の「ハビャーン」です。神のまします場所という意味があり、アマミキヨが上陸し、一時住んだという伝承があります。


久高島は沖縄本島東海上に浮かぶ周囲8キロの小さな島です。人口は270名程度です。スーパーもコンビニもありません。土地は神様からお借りしているものと考え、私有地はありません。島の北部、集落の外は聖域として守られた「誰のもの」でもない、広くて深い空間です。『琉球国王由来記』によれば、島の「イシキ浜」に五穀の種が流れ着き、そこから農業が始まったとされています。今でもその浜はニライカナイ(注1)からの神が島を訪れるときに船が着く場所といわれ、神聖な浜になっています。琉球王朝時代には、聞得大君(きこえおおぎみ(注2))と一緒に国王もこの島に渡って巡礼をしましたが、のちに国王の代理人であるノロ(祝女)の制度ができ一任したそうです。それを継承して行われてきた12年に一度行われる名高き祭祀「イザイホー」は、昭和53年以降行われていませんが、島をあげての旧正月や八月マティー、琉球開闢や五穀発祥にまつわる祭祀など数多くの年中行事が今でも行われています。 島のおばー達の一日は、天、地、海への感謝から始まります。神様、ご先祖様がいつも守ってくれていると信じているからこそ、厳しい自然の中でも謙虚さと感謝の心を忘れずに生きてきたのです(「NPO法人 久高島振興会」、「たびらい沖縄」のHPなどより。(注)は、サイトの管理人が補足)。

琉球の人々は、太陽は「太陽の穴」から上って、「太陽の穴」に沈むと考えていました。琉球王朝発祥の地である浦添城の東にあるワカリジー(為朝岩)から見ると、冬至の日の太陽は久高島から昇ります。太陽信仰の琉球では、太陽の昇る島=神の島と思ったのでしょう。さらに琉球の創生神アマミキヨ(注3)が、天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという琉球神話の聖地の島であることや、海のかなたの理想郷ニライカナイにつながる聖地であります。島の中央部にはアマミキヨが創った琉球開闢七御嶽(注4)のひとつ「クボー御嶽」がります。久高島は琉球王国にとって太陽神に最も近い島であり、最も大切にした島でもありました。そのため、繰り返し国王の参拝が行われたのだと思われます。

久高島に入るには、いくつもの守るべき注意事項があります。安座間港の待合室には、次のような注意書きがありますのでご紹介します。
・拝所などの聖地は、古来より島の人々はもちろん、琉球の人々が大切に守ってきました。気軽に立ち入れない場所もありますので、訪れる際は良く確認してください。
・島から石や植物、動物等を持ち帰らないようにしください。その場所にあるのが一番(自然との共生)です。
・行事、神事の日はカミンチュ(神人)以外、集落より北側には行けません。観光のお客様も残念ですがご理解ください。
・島を美しく守るため、持ち込んだ「もの」(ゴミとなるもの)はお持ち帰りください。
・キャンプは指定の場所以外は厳禁です。良く確認してください。
・この島を自分の故郷だと思って美しい島にすることを心がけ、ごゆっくり休憩されて気持ちよくお帰りくださいますようお願いいたします。

久高島は沖縄の人にとって特別な場所です。必ず守るようにしてください。また、これには書かれていませんが、一般常識として、集落内を水着だけで歩くことは慎んでください。



大原港 ホテル
安座間港、高速船なら15分で着く。フェリーは25分ほど。 七神を祀る外間御殿(内部)
外間御殿 大里家
島の重要な祭祀場である外間御殿 ノロの家「大里家」クンチャサヌルの秘話がある(注5)
久高御殿
王室の別邸「久高御殿」のあった久高御殿庭(みゃー)
イザイホー
1966年のイザイホー(琉球新報より) 1978年を最後に途絶えた
フボー御嶽
クボー御嶽、フボー御嶽ともいわれます。フボーとはクバの木という意味。島では最も大きな聖域であり、祭祀場です。
クボー御嶽 クボー御嶽
クボー御嶽は、神事のとき以外、何人たりとも立ち入り禁止 クボー御嶽の案内板
イシキ浜 イシキ浜
イシキ浜、ニライカナイ遥拝の地で、五穀の壺(麦・粟・豆・アダカ・米)が流れ着いたと伝わる浜です。
徳仁港
フェリーから久高島を見る。帰路、徳仁港から出てすぐに撮影。


(注1)ニライカナイ…琉球諸島で海の彼方や海底にあると信じられる理想郷の名称で、来訪神信仰の一つ。ニルヤカナヤともいわれ、東の水平線の彼方にあるとされます。神々が来訪してこの世の人々を祝福する儀礼や伝承は南島各地にみられ、稲や粟の種子も元来ここからもたらされたといわれています。「ニライ」は「根の方」、「カナイ」は「彼方」を意味する説など、諸説あります。

(注2)聞得大君…琉球王国の最高位の女神官。王女または王の姉妹が就任しました。国王を守護する「姉妹神」(おなり神)として、国王の長寿・国の繁栄・五穀豊穣・航海安全を祈願しました。

(注3)アマミキヨ…太陽の神が下界に「アマミキヨ ・シネリキヨ」の2神を送り、国造り、島造りを命じたとする琉球の神話。九州から奄美を経て沖縄に渡来した種族、つまり、アマミ(奄美)のキヨ(人)という説もあります。

(注4)琉球開闢七御嶽…アマミキヨによって造られた御嶽。以下、造られた順番。
  ・安須森御嶽(あすむぃうたき):国頭村辺土 ⇒ コチラから
  ・クバ御嶽:今帰仁村
  ・斎場御嶽(せーふぁうたき):南城市知念 ⇒ コチラから
  ・薮薩御嶽(やぶさつうたき):南城市玉城 ⇒ コチラから
  ・雨つづ天つぎ御嶽(あまつづてんつぎうたき):南城市玉城、玉城グスク内 ⇒ コチラから
  ・クボー御嶽(くぼーうたき):南城市知念(久高島)
  ・首里真玉森御嶽(しゅいまだまむいうたき):首里城内 ⇒ コチラから
このうち、"首里真玉森御嶽" は、沖縄戦と首里城改築工事による整備で失われ洞窟だけが残されています。名称の似ている "首里森御嶽(しゅいむいうたき)" は、首里城内の下之御庭(しちゃぬうなー)という場所に復元されています。クバ御嶽以外、現存する6ヶ所を、このサイトにUPしました。上の御嶽名にリンクしてあります。なお、上記の上から2ヶ所以外は、南部に集中しています。

(注5)クンチャサヌル…クンチャサヌルは、島の始祖家のなかでも最も古い大里家の娘で、目に見えない超能力を持つ神女であったそうです。この頃にはノロの制度はなく(聞得大君を頂点とするノロ制度は、後の第二尚氏の第三代、尚真王の時代になってから)、異界と交信する高い能力を持つ評判の高いシャーマンとして、その名を本島にまで知られていました。その評判を伝え聞いた第一尚氏最後の王、尚徳王は、政(まつり)ごとの宣託を仰ぎに しばし久高島に渡るうちに、クンチャサヌルの美貌に魅了され、恋に落ちてしまいました。1466年、尚徳王は自ら2千の兵を率い喜界島討伐を強行し凱旋する途中、愛人クンチャサヌルに会うため島に立ち寄りましたが、寵愛のあまりに別れを惜しんで島に逗留してしまいました。しかし、その隙に首里城でクーデターが起こり急ぎ首里に戻る途中、妻子の虐殺と金丸(第二尚氏の初代王)の即位を知り海に身を投げてしまいました(生き永らえて本島で身を隠していたとか、久高島で惨殺された、宮古島に逃れた、喜界島に戻ったなどの諸説があります)。それを聞いたクンチャサヌルも悲観して自家のガジュマルの枝で首をつり、自害してしまったそうです。なお、クンチャサを漢字で書くと「国司」。ヌルには、心霊を憑依する者という意味があります。琉球王朝のノロ制度ができる前から久高島には、神女による祭祀制度があったことも考えられます。



地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 久高島 拡大表示してご覧ください。



◎このサイトでご紹介している「東御廻り」の史跡などです。(タイトルをクリックしてください)

・園比屋武御嶽 ・御殿山
・与那原親川 ・場天御嶽
・佐敷上グスク ・テダ御川
・斎場御嶽 ・知念グスク
・知念大川 ・久高島
・アイハンタ御嶽 ・藪薩御嶽
・浜川御嶽 ・ヤハラヅカサ
・受水・走水 ・仲村渠樋川
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