=東御廻り=

知 念 グ ス ク


知念城跡
ミーグスク(新城)の入口です。

由緒書きと城跡の石柱 野面積みと切石積みが混じった城壁です


知念グスクは知念按司(あじ=首長)の居城であると伝えられ、城の創建については不明ですが、ミーグスク(新城)とクーグスク(古城)とよばれる二つの郭からできています。クーグスクは12世紀末~13世紀、ミーグスクは15世紀後半に築城されたと考えられています。クーグスクは古い野面積みで囲まれ、一番高い岩山の上に立地しています。ミーグスクは、二つの門と石垣で囲まれた郭です。

知念城跡は、 城内には、国王や聞得大君(きこえおおきみ)が「東御廻り(アガリウマーイ(注1)・東方の拝所巡礼)」の時に参詣した拝所「友利御嶽(ともりうたき)」や、瓦葺きの火の神(ヒヌカン)の社殿があります。1893年までは知念(ちねん)間切の番所(役所)が置かれていました。

知念城跡の周りには、古屋敷跡、ノロ屋敷跡、古屋敷跡、知念按司墓、受水・走水とともに稲作発祥の地があります。

久高島の遥拝所 城跡の手前にあるノロの屋敷跡。ノロは最高位の女神官です。


現地の由緒書きには、次のとおり記されています。
史跡 知念城跡
昭和47年5月15日 国指定
この城は、二つの部分からなっています。一つは東南部の古城で、高所は1~2メートルの野面積みの石垣で囲まれ、内部はうっそうとした森となっています。ここは「おもろさうし(注2)」に「ちゑねんもりぐすく」と謡われた霊場です。この古城の西方に高さ3メートルの切石積の城壁をめぐらした新城が連なります。城壁の東に正門、北に裏門とアーチ形の城門をひらき、城郭には、沖縄の開闢伝説で名高い久高島の遥拝所があります。
この新城は尚真王の異母兄弟にあたる内間大親が築いたといわれていますが、真偽は不明です。知念城は古くは代々の知念按司の居所でもあったと思われますが、それがたんなる城郭ではなく、「あまみきよ」の伝説と尚真王の権威とが結びついたいわば宗教的城という意味で重要です。
沖縄県教育委員会 昭和53年3月31日



(注1)東御廻り…琉球王朝時代に、国王が創造神・アマミキヨが二ライカナイから渡来して住みついたと伝えられる霊地を巡拝する行事で、王国の繁栄と五穀豊穣を祈願する行事として始められたといいます。その後、民間へと広まっていったそうです。守礼門と首里城歓会門の中間にあり、現在は世界遺産になっている「園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)」で旅の安全を祈願してスタートし、そこから首里から見て太陽の昇る方(東方/あがりかた)、つまり現在の南城市佐敷、知念、玉城方面へと聖地は続いていきます。

(注2)おもろさうし…琉球王国第4代尚清王の嘉靖10年(1531年)から尚豊王の天啓3年(1623年)にかけて首里王府によって編纂された歌謡集。「おもろ」の語源は「おもしろい」ではなく「思い」であり、そのルーツは祭祀における祝詞だったと考えられています。「さうし」は、大和の「草子」(紙をとじ合わせた形式の書物、たとえば、仮名草子、浮世草子など、草紙の字をあてることもある)にならって命名されたものと考えられています。全22巻あります。



地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 知念グスク たいへん分かりにくい場所です。国道331号線から急坂を登るか、県道86号線か "カフェくるくま" の前を通って降りて行きます 。無料の駐車場があります。舗装された急坂を下りると見えてきます。



◎このサイトでご紹介している「東御廻り」の史跡などです。(タイトルをクリックしてください)

・園比屋武御嶽 ・御殿山
・与那原親川 ・場天御嶽
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