=東御廻り=

与那原親川(よなばる うぇーがー)


御殿山
与那原親川の拝所です。拝所の広場はデイゴの木々に囲まれています。

「お水撫で」のイラストです 「与那原親川」は綱曳資料館前の広場にあります


御殿山に天降りした天女が、この湧井の水を産湯に使ったと伝えられています。また、与那原小浜の初日の出を拝んだ国王が、ここ親川で手足を清めたという民話も残っています。

「琉球国由来記」によると聞得大君(きこえおおぎみ(注1))の御新下り(おあらおり(注2))」の際に親川では「お水撫で」が行われました。「お水撫で」とは親川から汲んだ御水(うびー)を盛った器に中指を浸し、額を撫でる呪法で「孵で水=すでぃみじ(脱皮・再生の聖水の儀)」の儀式です。つまり天女やその子が浴びた親川で儀礼的に聖なる水を浴びることによって、天女の霊力を獲得(御新下り)する儀礼としての意味がありました。

琉歌にも「与那原の親川に あまくらがいちゃうん あまくらやあらん 思姉おすじ」と歌われています。この歌を私が勝手に解釈すると「与那原の親川に天から舞い降りた者がいるよ。いや天から舞い降りたのではなく、思姉(うみない)の霊神だよ」という意味になるでしょうか。「思姉」とは、姉または妹が兄または弟を霊的に守る姉妹を神格化したオナリ神のことです。「おすじ」はおセジで、セジは霊的な力のことです。沖縄では霊力のあることをセジ(発音はシジ)が高いといいます。

澄みきって、冷たい水がこんこんと湧きでるこの泉は、人々の崇拝を集めた霊所でもあります。なお、「親川」と「川」の文字が使われていますが、沖縄では、自然の湧泉を水源として利用することが多く、「川(発音は、かーorがー)」とは、井戸のことをいうことが多いようです。「水脈から樋などで水を引いて水溜を造ったものは「樋川(ひーじゃー)」といいます。一般にいう「川」ではありません。



与那原親川


上の現地の由緒書きには、次のとおり記されています。
与那原親川は天地開闢のむかし、御殿山に天降りした天女が、その御子の出産に当たり、産湯を召したという神話に発し、琉球王朝時代は国王の久高島参詣、聞得大君の御新降り(おあらおり)や東御廻り(あがりうまーい(注3))の際、首里出発後最初の拝所となり、休憩地として御用水を献じたところと伝えられている。
澄みきって冷たい水が滾々湧き出るこの古泉は人々の尊崇をあつめた霊所であった。与那原発祥の頃、我々の祖先は上の毛の高台から下方隆起沖積しつつある海岸におりたって、この泉を中心に村立をはじめ、豊富な余剰水を利用して新島原一帯に広い水田を開いたという。親川の広場はデイゴの古樹に囲まれ、町民の団結と憩いの場所として集会所となり催し場となった。
与那原の大行事大綱曳もここから出発し、ここで集結する。町の発展と人々の健康を祈願する場所だからである。
上原良知撰文
昭和五十五年四月
親川拝所復旧期成会建立。



(注1) 聞得大君…琉球王国の最高位の女神官。王女または王の姉妹が就任しました。国王を守護する「姉妹神」(おなり神)として、国王の長寿・国の繁栄・五穀豊穣・航海安全を祈願しました。

(注2) 御新降り…御新下りは聞得大君の就任儀礼のことで、琉球最高の御嶽である斎場御嶽で行われました。

(注3) 東御廻り…琉球王朝時代に、国王が創造神・アマミキヨが二ライカナイから渡来して住みついたと伝えられる霊地を巡拝する行事で、王国の繁栄と五穀豊穣を祈願する行事として始められたといいます。その後、民間へと広まっていったそうです。守礼門と首里城歓会門の中間にあり、現在は世界遺産になっている「園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)」で旅の安全を祈願してスタートし、そこから首里から見て太陽の昇る方(東方/あがりかた)、つまり現在の南城市佐敷、知念、玉城方面へと聖地は続いていきます。



地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 与那原親川 与那原町綱曳資料書館前の広場にあります。低い石垣で囲まれています。2~3台ですが車を止めるスペースもあります。



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