ハイホーの沖縄散歩=本島以外=
とかしくビーチから阿波連へ向かう林道の出口左側に「戦跡碑」があります。昭和20(1945)年、この島で起こった激しい戦闘と、島民の死の歴史について記されています。
昭和20年3月23日より、この渡嘉敷島は、米軍機の執拗な空爆と機動部隊艦艇からの艦砲射撃にさらされました。 島民は同月27日に恩納河原など数カ所に集結し、翌28日には、敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだのだそうです。 そして、「一家は或いは車座になって手榴弾を抜き、あるいは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは愛であった。この日の前後に394人の島民の命が失われた」とあります。 ここの碑文は曽野綾子氏の撰と記されています。
以下、戦跡碑の全文です(原文のまま)。
ここに記すのは、昭和20年(1945年)この島に於いて戦われた激しい戦闘と、島民の死の歴史である。
大東亜戦争の最後の年の3月23日より、この渡嘉敷島は、米軍機の執拗な空爆と、機動部隊艦艇からの艦砲射撃にさらされた。山は燃え続け、煙は島を包んだ。当時島にあったベニヤ板張りの船を利用した、夜間攻撃用の特攻船艇部隊は、出撃不可能となり、艇を自らの手によって自沈するようにとの命令をうけた。こうして、当時、島にあった海上艇進三戦隊、同基地隊などの将兵315名は、僅かな火器を持っただけで、島の守備隊とならざるを得なかった。
3月27日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所に集結したが、翌28日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは愛であった。この日の前後に394人の島民の命が失われた。
その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。人々はトカゲ、ネズミ、ソテツの幹までを食した。死期が近づくと人々の衣服の縫い目にたかっていたシラミはいなくなり、まだ辛うじて呼吸を続けている人の目に、早くもハエが卵を生みつけた。
315名の将兵のうち18名は栄養失調のために死亡し、52名は、米軍の攻撃により戦死した。 昭和20年8月23日、軍は命令により降伏した。
「8月20日、第一中隊前進陣地ニ於テ、各隊兵器ヲ集積シ、遥カ東方皇居ヲ拝シ兵器訣別 式ヲ行ウ。太陽ハ輝キ、青イ空、青イ海、周囲ノ海上ニハ数百ノ敵艦艇ガ静カニ遊戈或イハ碇泊中ナリ、唯、茫然、戦ヒ既ニ終ル」
(陣中日誌より)
昭和54年3月 曾野 綾子撰
《ご参考》HP「ちきゅう座」によると、曽野綾子氏は『ある神話の背景』などの著作の中で集団自決は軍の命令によるものではないと主張しておられ、一家が集団自決をする凄惨な場面が記述されたあとに「そこにあるのは愛である」という文言があり、集団自決の背景には、「家族愛」と「殉国美談」に仕上げたい意図が働いていたかのようだと主張されている。確かに曽野綾子氏は、高校歴史教科書の検定において、これまで事実とされてきた日本軍の強制記述を削除する検定意見を付けたことがあり、 HP「はたら9条の会」にも、同女史は侵略戦争を美化しようとする勢力の一人で、碑文に書かれた内容は、集団自決した死者たちへのこれ以上の冒涜はないと述べておられる。
こんなザレ歌がある。「慶良間(けらま)ケラケラ、阿嘉(あか)んべ、座間味(ざまみ)やがれ、ま渡嘉敷(かしとき)」この歌をおつくりなったのは、誰あろう、曽野綾子氏である。この方、本当に真摯に沖縄に向かい合っていたのだろうか。
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