学問の神様(渡嘉敷島)


学問の神様


渡嘉敷港のすぐ近く、渡嘉敷川が港にそそぐンナトゥヌチビ−(港の尻)と呼ばれる場所のやや上流の右岸にあります。

現地の案内看板には次のとおり記されています。
ここは、薩摩藩から流刑になって島に移り住んだ大和の僧「鬼才」の墓であるとの伝えがあります。伝えによると、「鬼才」は、大島出身の学問僧で、この僧が来るまで琉球では漢文だけを用いていたが、この人が国文学を教えたので、琉球でも和文ができるようになったといわれています。
現在、この拝所は、島の人たちから「学問の神様」と崇められ、子供たちが高校や大学を受験するときなどに祈願します。
平成20年3月 渡嘉敷村教育委員会

島の伝説に「鬼才」の祟りのお話がありますので、渡嘉敷村のHPからご紹介しましょう。

僧「鬼才」は渡嘉敷島に来ると米祝女殿内(メーヌンドゥンチ)で暮らし、島の人から「学問世の先生」と呼ばれていました。そのころ根神殿内(ニーガンドゥンチ)には、非常に美しいニーガングヮー(根神小)という娘がおり、鬼才はその娘と恋仲になり、昼は米祝女殿内で島の人に学問を教え、夜になるとこっそり根神殿内に通いました。
島の若い男達は、この僧侶をねたみ、この僧が根神殿内に夜通うとき、必ず途中の中丹屋という家の犬が吠えるので、その犬の鳴き声がしたらみんなで僧侶を殺そうと相談し、中丹屋の後ろに隠れて待ち伏して、通りかかったこの僧侶を殺してしまいました。その死体を渡嘉敷川に流したところ大雨が降り、死体は渡嘉敷川が海に注ぐ、ンナトゥヌチビ(港の尻)と呼ばれる河口のアシが生えた所に流れ着きました。
村の人達は、その死体を見つけ、このままにしては置けないと、その近くの山手の方に埋めたのです。ちょうどその年にコレラが流行し、村中の若者のほとんどが次々に死んだので、ユタに聞いてみました。すると鬼才がユタの口を借りて、「このコレラは、私の祟りだ。もう一度葬り直して、私を祀ってくれ。今度葬り直すときには、南京豆を焼いて、それも一緒に埋めなさい。私の思いが晴れていなかったら、その南京豆から芽が出て、もう一度私は世に出て村人に祟るだろう。」といったと言われ、村人達は、それを聞くとお墓をウシクルシモー(牛殺し毛)に移し、その墓に南京豆を焼いて入れ、鬼才を祀ることにしました。
ところが、その墓から南京豆の芽が出て、若者達が続けて死に、村では死人が出てもその死体を運ぶ人さえなくなってしまいました。そこで、もう一度、ユタに占ってもらうと「私は村人に学問を教えてやり、何も悪いことをしないのに殺され、雨が降れば水のつかる場所に葬られており、その上、ここからは私を島流しにした薩摩からの船が通るのが見える。その度に辛い思いをするから、あの船の見えないところに葬ってくれ」というので、墓を港の内側の場所に移し、墓の向きも港とは逆の西向きに作り、拝所を建てたということです。

なお、ここには香炉が3個あり、この僧のほかに、歌・三味線の神の男神、祭りの儀式を教えた女神が祀られているとする伝えがあります。



地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 学問の神様 学問の神様は渡嘉敷川の右岸にあり、国道186号線から右岸に渡る橋も限られていますので、地図をよく見て行ってください。また、この周辺は平成30年11月18日現在、港に直接通じる道路は改修中ですので行き止まりです。橋が完成すれば港にある漁協前の道と結ばれます。



◎このサイトでご紹介している渡嘉敷島の名所・史跡などについては、次の ⇒ コチラからとリンクしています。
・赤間山の烽火台跡 ⇒ コチラから
・阿波連 ⇒ コチラから
・阿波連園地 ⇒ コチラから
・ウニギラマの伝説 ⇒ コチラから
・海神宮 ⇒ コチラから
・学問の神様 ⇒ コチラから
・旧日本軍「特攻艇」の秘匿壕 ⇒ コチラから
・クバンダキ展望台 ⇒ コチラから
・クミチジ山 ⇒ コチラから
・白玉之塔 ⇒ コチラから
・戦跡碑 ⇒ コチラから
・照山 ⇒ コチラから
・渡嘉敷神社 ⇒ コチラから
・とかしくビーチ ⇒ コチラから
・根元家の石垣 ⇒ コチラから
・船蔵御嶽 ⇒ コチラから
・船越原遺跡 ⇒ コチラから
・前島 ⇒ コチラから

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