赤間山の烽火台跡 (ひーたてぃやー:渡嘉敷島)


烽火台跡  

「赤間山の烽火台跡 (ひーたてぃやー)」は、渡嘉敷港から車で5分ほどの “国立沖縄県青少年交流の家”にあります。 “国立沖縄県青少年交流の家” の敷地内には誰でも許可なく入れます。烽火台跡は、管理研修棟裏の小山を塀づたいに登った所にあります。 “ひーたてぃやー”とは「烽火(のろし)台」のことです。江戸時代に琉球王府が通信の手段として周辺の島々に烽火台を建てたもので、現地には、碑文をはめ込んだ大きな石の碑が立っています。
江戸時代、1624年琉球王府は、通信の手段として烽火を考え、中山支配下の各間切(まぎり:行政単位)や周辺の島々に烽火台を建てました。赤間山の頂上に残っている烽火台跡は、その中の一つです。島々(久米島、慶良間の島々、渡名喜島、伊平屋島、粟国島、伊江島等)に進貢船(しんこうせん)や冊封船(さっぷうせんorさくほうせん)が近づいたとき、烽火をたいて、つぎつぎと伝え、最後は、この赤間山の烽火台から浦添や小禄に伝え、そこから首里王府に連絡したのです。


烽火のたき方としては、進貢船1隻のときは一筋の煙、2隻のときは二筋の煙、あるいはどこの船籍か不明の時は三筋の煙など、その状況によっていろいろ烽火のたき方があったのです。唐船の時代、慶良間の島々は地理的に那覇、首里に近く、重要な通信基地でした。
進貢船が琉球に帰るとき、順風のときは、まず久米島に接近し、その後、慶良間に来て停泊、風待ちをするか、あるいは慶良間の北側を通って、那覇に直通するコースが順調な航路でした。風によっては、尖閣列島から八重山諸島を通り、島伝いに北上してくる場合もあり、また、伊平屋、粟国、渡名喜を回り、座間味、渡嘉敷と近づいてくるコースもありました。
これらの島々には、どの島にも烽火台があり、そこには番人もいて島伝いにつぎつぎ烽火をたいて、進貢船の接近を知らせていったのです。冊封使をのせた冊封船が来ると、王府は接待をするため、いろいろな準備をしなければなりません。いくらかでも事前に知らせる必要があったのです。現在のような定期船ではないし、進貢船が風待ちで2、3か月も阿護之浦(あごのうら)に停泊する場合もあった時代でした。
明治、大正期に入ってからは、名護に「白い煙、黒い煙」として有名な烽火台があるのと同じように、この赤間山の ひーたひやーは、大和に行く子弟の見送りや、軍人の見送りのため這根樹(はいねじゅ・ひってぃーし)の葉をたき、白い煙を出し、見送りをしたのです。そして大和旅の安全と戦地に向かう軍人の無事帰島を祈りました。

以上の説明と重複しますが、碑文には次のように書かれています。
赤間山立火所跡
かつて慶良間は渡唐船の航路にあたっていた。記録によれば、首里の王府にいち早く船の帰りを知らせるため、この山頂で篝火を焚き小禄方面に連絡していたことが知られる。また、明治以降においても、島を離れて遠方に赴く村の男たちの見送りに際し、篝火を焚いたり狼煙を打ち上げたりして壮途を祝い旅路の安全を祈ったと語り継がれている。
昭和57年建立  『国立沖縄青年の家』(以上、渡嘉敷村HPより)

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