ハイホーの沖縄散歩=中部地区=
浦添グスクは、13世紀ごろ築城され、首里城以前の琉球王国の王宮でした。王都が首里に移された15世紀ころまでは、舜天(しゅんてん)王統、英祖(えいそ)王統、察度(さっと)王統の居城として200年余りに渡って、琉球国中山(ちゅうざん)の歴史の表舞台となったお城です。標高約130mの琉球石灰岩の丘陵に位置し、東シナ海や読谷(よみたん)村まで見渡せます。国の史跡に指定されており、平成26年には、浦添八景(注)のひとつに指定されました。
《追記》その浦添グスクの発掘調査で城跡の南の斜面から城壁の石積み遺構が、長さ8メートルにわたって発見され、平成30年1月28日、現場見学会が行われましたので行ってきました。今回の発見では、一番高い所は積み石10段、高さ2メートルで、切り石が布積み技法で積まれていました。今後、さらに先に伸びている可能性が高く、今後の発掘での新たな発見が期待されます(上の写真は、見学会の前日に撮影したものです)。
浦添グスクの城壁は、先の大戦時に米軍の砲撃や戦後の復興期に建築資材として持ち出されてしまい、ほとんど残っていないと考えられていました。現在、城壁やその痕跡が40メートルほどの長さで確認されており、復元整備の明るい材料となりました。いつの日にか、城壁の完全復元される日が来ることを期待しております(追記終わり)。
発掘調査から14世紀頃の浦添グスクは、高麗系瓦ぶきの正殿を中心に、堀や石積み城壁で囲まれた巨大なグスクで、周辺には王陵・寺院・大きな池・有力者の屋敷・集落などがあったと考えられています。のちの王都首里の原形がここでできあがっていたようです。
王都が首里に移された後、浦添グスクは荒廃しますが、1524年ころから1609年の薩摩藩の侵攻までは浦添家の居城となりました。1609年の薩摩軍の琉球侵攻で焼き討ちされ廃城となりましたが、沖縄戦では、米軍との間で前後11回にわたる激しい争奪戦、攻防戦が約3週間の間 繰り広げられました。陣地攻略を指揮していた米軍第24軍団長のホッジ少将は「(この砦を)一寸刻みに爆破していく以外に、日本軍を追い出す方法は無いと思う」と述べたといわれています。この日米両軍の激しい戦闘により、戦前まで残っていた城壁も大部分が破壊されてしまいました。浦添市では現在、史跡浦添城跡復元事業を進めており、正殿と思われる石敷きの発掘や、土で埋もれていた城壁が次々に発見されています。
戦にも 耐え来し根石に積まれたる 城壁清し 浦添グスク
城跡内や周辺には、浦添ようどれ、伊波普猷の墓、ティーグガマ、正殿の石敷き、正殿発掘で採取された鬼瓦、カンパン壕、缶詰壕、為朝岩(ワカリジー)などがあります。また、城壁の内側からは、人が入るギリギリの大きさに掘られた穴から人骨が発見され、粘土でおおわれていたそうです。身長150センチくらいの20歳前後の女性と判明しています。なぜ埋められていたのかは"謎"です。
以上、現地の案内板、教育委員会発行の「浦添城跡」、同「発掘現場見学会資料」、同「浦添八景」をもとに作成しました。
沖縄学の父、伊波普猷の墓 | 石畳道の竣工記念に建てられた城前の碑 |
城壁の東端に立つ為朝岩(ワカリジー) | 浦添ようどれ |
浦添大公園西端の展望台から眼下のR330を望む | 浦添グスク内の御嶽(拝所)のひとつディーグガマ |
城の南側斜面に残るカンパン壕 | 広い駐車場 |
鬼瓦のレプリカ(南エントランス展示室) | 城壁内から発見された若い女性の人骨(pamphletをcopy) |
(注)浦添八景…平成26年10月、昔ながらの風景や市民の生活との関わりが説明できるものという観点から、未来に残したい浦添市の原風景を募集して決定されたもの。
浦添八景に選ばれたのは次のとおり
▽ 浦添グスク
▽ 浦添ようどれ
▽ 為朝岩(わかりじー)
▽ 当山の石畳=宿道「普天間参詣道」
▽ 伊祖グスク
▽ 亀瀬(カーミージー)
▽ 杜の美術館=浦添市美術館
▽ 安波茶橋=宿道「中頭方西海道」
地図をご覧になる方はコチラから ⇒浦添グスク 車で行くときは、浦添城跡の看板を目印に。坂道を上った突き当りの駐車場へ。入場、駐車とも無料です。
ナビゲーションはトップページにあります。
TOPページへ