=浦添八景=

浦添ようどれ








ようどれ館の鬼瓦です。気が付く人は少ないようです。右は、南エントランス管理事務所に展示してある鬼瓦のレプリカ


「浦添ようどれ」は英祖(えいそ)王(在位1260-1299)と琉球王国第二尚氏王統第7代目の尚寧(しょうねい)王(在位1589-1620)の陵墓で、浦添八景(注)のひとつです。「ようどれ」とは、夕どれ=夕方の波風が静まる時という意味で、この陵墓は、自然洞窟を堀削して造営しており、沖縄の墓造りの原型になったと考えられています。墓の中の石厨子は県指定文化財で、仏像、鶴、亀などの見事な彫刻が施されていて仏教文化の影響を色濃く残しています。平成17年4月には修復・復元工事が完了し、浦添グスク・ようどれ館も誕生しました。館内では英祖王の墓の内部が実物大に再現され、3つの石厨子(下の写真)や出土した遺物などが展示されています(HP「おきなわ物語」より)。「浦添ようどれ」の見学は無料ですが、「ようどれ館」へ入場するときは、平成27年10月現在、大人100円。休館日は月曜日と12月28日〜1月3日 。





浦添ようどれ全景(北側から撮影)

なお、この墓に眠る尚寧王は、先代の王に世継ぎがなかったため、分家の浦添尚氏から王に即位しました。また独立国家としての琉球王国、最後の王でもありました。それは、1609年、薩摩の島津氏が琉球に攻め入り、首里城は陥落。琉球は降伏し、王は薩摩に連れて行かれ、「子々孫々まで島津氏にそむきません」などと書かれた "掟15条" という誓約書にサインさせられ、琉球は薩摩の属国になったのです。ただ、中国との朝貢関係を保つため国としては存続しましたが、薩摩と明の二ヶ国に両属することになりました。といっても1613年には琉球の支配下にあった奄美大島も薩摩に割譲するなど、実質的には薩摩の支配下にありました。尚寧王は、2年の抑留から琉球に帰ることが許されましたが、このことを恥じて、没後、首里にある王家の墓(玉陵)に入ることを潔しとせず、遺言でふるさとの浦添の墓に入れるよう言い残してこの世を去りました。没後、次の王には、尚寧に後継者がいたにもかかわらず、首里尚氏の策略で排除され、その後も、浦添尚氏から王になった者はありませんでした。このことから、尚寧は悲劇の王と呼ばれるようになりました。なお、王家の墓ではなく浦添の墓に入ったのには、諸説あります(この稿は、ネット情報をまとめたものです)。

きびしかる 乱世生き来し ようどれの 碑文は無辺の 光をはじく

(注)浦添八景…平成26年10月、昔ながらの風景や市民の生活との関わりが説明できるものという観点から、未来に残したい浦添市の原風景を募集して決定されたもの。
浦添八景に選ばれたのは次のとおり
浦添グスク
浦添ようどれ
為朝岩(ワカリジー)
当山の石畳=宿道「普天間参詣道」
伊祖グスク
亀瀬(カーミージー)
杜の美術館=浦添市美術館
安波茶橋=宿道「中頭方西海道」






地図をご覧になる方はコチラから ⇒浦添ようどれ 車で行くときは、浦添城跡の看板を目印に。直接、「ようどれ」へ行くときは「ようどれ館」の駐車場ではなく、奥の駐車場へ。どちらも駐車は無料です。

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