カンパン壕・缶詰壕




 
左は、雨が降ると水没するカンパン壕(降雨日の翌日 撮影)。右は、壕の見取り図。


上の写真は「カンパン壕」と呼ばれています。カンパンとは、保存と携帯のために堅く焼いたビスケットのような食品のことで、漢字で書くと乾パンです。文字通り乾いたカチカチのパンです。食べやすいよう一口サイズで、今でも災害の保存食、非常食として使われています。

この壕は、浦添城跡の南側の斜面を利用して造られました。浦添城跡のある丘は、戦時中は前田高地と呼ばれ、日本軍の陣営が置かれていました。昭和20年4月から米軍との間に激しい戦闘が繰り広げられ、兵士だけでなく洞穴に避難していた民間人も大勢が犠牲になりました。前田高地には日本軍の食糧を保管していた糧食壕がありました。カンパン壕もそのひとつで、昭和19年(1944)に造られました。内部はコの字状になっており、カンパンの入った箱が天井に届くほど高く積み上げられていました。

戦闘中には、特に重傷を負った兵士も収容されておりましたが、薬品類も乏しく、また、昭和20年(1945)5月には、米軍が前田高地を占領していましたので水の確保が困難で、手当もままならぬ状態でした。負傷兵の中には、カンパンの箱の上で寝起きする者もいたそうです。

写真にあるように、入口に格子のネットが設けてありますが、落盤の危険があり、また浸水が激しいため中に入ることはできません。この近くにはカンパン壕のほか缶詰壕があります。このほかにも兵員壕と呼ばれる壕もあります。いずれも人工的に掘削された壕です。

下の写真は缶詰壕です。缶詰壕の現地の説明版には、次のように記されています(原文のまま)。

この壕は昭和19(1944)年に造られた壕で、中は複雑な形状をしています。
日本軍用の食糧を保管した壕で「糧食壕」とも呼ばれています。魚肉団子や鯖、パイン缶などの缶詰のほか、乾燥野菜や米、酒(泡盛)、味噌などの入った箱や袋が豊富にあり、これらを出入り口に積み上げることで、弾除け、爆風除けにしていました。
缶詰壕では大隊長や将兵や、カンパン壕よりも比較的軽度の負傷兵が身を隠し、脱出の機会をうかがっていたそうです。しかし、火炎放射器などの攻撃を受け、食料は全て持ち出されてしまいました。
※落盤の恐れはあるため入ってはいけません。





 
左は、缶詰壕の もうひとつの入口。右は、壕の見取り図。

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 南エントランス管理事務所 この地図の県営浦添大公園南エントランス管理事務所の前にある駐車場に車を置いて歩きます。カンパン壕や缶詰壕の場所は、管理事務所の方に聞くといいでしょう。

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