高平山(たかでーらやま)




高平山と書いて「たかでーらやま」と読みます。ここには案内碑が立っているだけですから、説明を読まなければ何の変哲もない山道の途中です。この山道は、首里平良町から末吉宮への参道です。末吉宮は末吉公園内にあるのですが、末吉公園の中から末吉宮に向かう道は知っていないと分かりにくいのです。この参道は一本道で、経路は2ルートありますが、ともに分岐は1ヵ所だけですから分かりやすい道です。末吉公園は私の散歩コースですので よく歩きますが、よく末吉宮への道を尋ねられます。末吉宮に近いところで聞かれたときは、分かりやすい所までご案内しています。帰路に公園の入り口付近で尋ねられた時は、ていねいにお教えしていますが、その方が無事、たどり着けたかどうかは分かりません。公園の中からは分岐する道が多く、公園内の散策路なので目印も少なく、ご説明するのに苦労しています。

現地の案内碑には、次のとおり記されています(原文のまま)。
琉球王国時代に創作された組踊(注1)「万歳敵討(まんざいてきうち)」舞台。登場人物「高平良御鎖(タカデーラウザシ)」の屋敷があった場所と設定される。
物語は、傲慢(ごうまん)な高平良御鎖は、ある日、「大謝名比屋(おおじゃなのひや)」が持っていた名馬を見て、譲り受けようと望んだが、断られたため、比屋を闇討ちにした。大謝名の息子「謝名子(じゃなのシー)」と「慶雲(けいうん)」の二人は時機を伺い、高平良御鎖を討ち取るというものである。
「万歳敵討」の作者田里朝直(たさとちょうちょく)(1703〜1773年)は、組踊創始者玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)、平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)に続く人物であり、「万歳敵討」とともに「義臣物語(ぎしんものがたり)」・「大城崩(ウフグスクくずれ)」を創作して、田里の組踊三番と称されている。「万歳敵討」は1756年に尚穆王冊封(しょうぼくさっぷう)の際、冊封使(注2)歓待のための「冊封宴(えん)」で上演されている。
高平山から首里末吉町(しゅりすえよしちょう)にかけての丘陵地帯は、王国時代からの墓地地帯でもあり、王族が眠る「末吉陵(すえよしりょう)」、王国時代の政治家羽地朝秀(はねじちょうしゅう)の墓、那覇市指定文化財「宜野湾御殿家の墓及び墓域」などがある。また首里平良(たいら)町と末吉町を結ぶ道は、琉球八社の一つ「末吉宮(すえよしぐう)」への参道であり、石畳が残っている。末吉町側には玉城朝薫作の組踊「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」の舞台となった遍照寺(へんしょうじ)(元万寿寺(まんじゅじ))跡が残っている。

(注1)組踊(くみおどり)…琉球の古い音楽と踊りを取り入れた劇のことです。
(注2)冊封使(さっぷうし)…中国王朝の皇帝が琉球、朝鮮などの付庸国の国王に爵号を授けるために派遣する使節のことです。「さくほうし」、「さっぽうし」ともいいます。




 

この原稿を書いてからWeb upまでに日にちが経過しています。
平成29年7月12日現在、左の写真のように、現地は草が生い茂り、碑の背丈が低いこともあって、碑全体を隠してしまっています。そのため、末吉宮側から坂を下ってくるときは、気を付けて見ないと通過してしまうでしょう。

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 高平山 



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