遍照寺(へんじょうじ)跡(旧万寿寺)


遍照寺があったと思われる場所にある石垣


遍照寺(へんじょうじ)は、かつて那覇市首里末吉町にあった寺院で、山号は大慶山のち金剛山。開山は鶴翁和尚(かくおう おしょう:天界寺の住持 )で、景泰年間(1450〜57)に建立されたと伝わっています。もともとは万寿寺(まんじゅじ)という臨済宗の寺院でしたが、1672年、真言宗に改宗しました。さらに薩摩藩に万寿姫という名の姫がいたことにより、薩摩の命令によって遍照寺と名も改めました。遍照寺は末吉宮の別当寺です。末吉宮は、「末吉権現」「末吉山熊野三所大権現」とも称されていました。遍照寺は沖縄戦で焼失しましたが、現在は沖縄県沖縄市(旧コザ市)に移転し、現存しています。下の写真が移転した遍照寺ですが、お寺のようには見えません。沖縄の寺院は、見た目が民家の造りと変わらないところが多く、寺名の表示がないとお寺だと分かりません。沖縄には本土のような檀家制度がありませんので、スポンサーがいないと立派な建物が造れないのでしょうか。しかし、沖縄のテレビを見ていると霊園のCMが目につきます。遍照寺の「霊園かなさ」も最初は末吉にあった遍照寺と関係があるとは思っていませんでしたが、寺のHPを見たら「霊園かなさ」と「浦添当山霊園」は、ともに遍照寺の経営でした。かなり手広くやっておられるようです。

末吉の遍照寺のあったあたりは、現在、わずかな石垣の遺構以外、何も残っていません。その石垣も見るたびに崩壊が進み、往時の寺の面影を偲ばせるものはありませんが、組踊の創始者玉城朝薫の残した「執心鐘入(しゅうしんかにいり)」の舞台としてその名を残しています。

国立劇場おきなわの演目にある組踊「執心鐘入」から、あらすじをご紹介しましょう。

美少年として名の知られた中城若松は、首里での奉公に向かうその途中、日が暮れてしまい、山中の一軒家に泊めて欲しいと願います。その家では、若い女が1人で留守番をしていました。女は親が居ないときは泊められないと断ります。しかし若松が名乗ると、女は有名な若松に憧れの思いを寄せていたので、これは思いがけないチャンスと態度を一変させて家に招き入れました。

若松は眠りにつきますが、女は若松への思いを遂げようと若松を起こして関係を迫ります。「そんなつもりはない」と頑なに拒む若松。女は「これも運命ですよ」と激しく迫り、しつこく若松に詰め寄ります。身の危険を感じた若松は、女の手を振りほどき外へと逃げ出しました。

若松は末吉の万寿寺に逃げ込み、住職に助けを求めます。住職は若松を鐘の中に隠し、寺の小僧達に番をさせ、決して寺に入れるなと言いつけます。そこへ若松を追い、女がやって来ます。小僧達は女を追い出そうとしますが、女は強引に寺に入ってしまいます。 寺中を探し回る女のただならぬ気配に気付いた住職は、若松を鐘から連れ出して逃がします。逆上した女は、鐘にまとわりつき、鬼に変身してしまいます。しかし、住職は法力によって鬼女を説き伏せ鎮めることができた、というお話です。

この話、紀州の道成寺にまつわる「安珍・清姫(あんちん・きよひめ)」伝説にそっくりです。私は40年くらい前ですが、和歌山県の紀三井寺でこの話の絵解き説法を聞きました。道成寺縁起絵巻の写本を広げながら語る住職さんは、「この人、ホントにお坊さん?」と思えるほど、まさに捧腹絶倒、終始、大爆笑の語り口でした。



沖縄市の遍照寺 執心鐘入のポスター
沖縄市に移転した遍照寺(Google streetviewより) 国立劇場おきなわの組踊「執心鐘入」のポスター
荒廃が進む石垣 林のなかの石垣
荒廃が進む石積み 林のなかにあった石積みも遍照寺のものと思われます


地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 遍照寺  末吉公園内の玉城朝薫の生誕記念碑の前を通り、石段を上って右に曲がって末吉宮の石柱の手前の左にありました。歩きの場合は、平良バス停近くの城北外科脇の道から入った方が分かりやすいでしょう。
地図は ⇒ コチラから

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