綾門大道(あやじょう うふみち)


綾門大道

綾門大道(守礼門側から中山門跡方向を見る。左の石垣:玉陵、右:首里高校)


「路平坦にして九軌を溶(い)るべし。傍らに石墻(せきしょう―石垣のこと)を塁(かさ)ね、また百雉(ひゃっち―雉とは城壁の面積の単位)の制のごとし」
琉球にやってきた冊封使(注1)が、綾門大道のことをこのように評したそうです。意味は、車を横に9台も並べることができるくらいの広々とした道ということでしょうか。

綾門大道とは、守礼門から中山門までの約500メートル間の大手道のことをいいます。この道は、崇元寺から那覇港へと続いています。今から600年も昔の15世紀初め、琉球の歴史で確認できる最初の計画道が整備されました。道幅約12メートル、路面は石灰岩の粉(いしぐー)が敷き詰められた美しい道でした。綾門大道には「美しい門の道」という意味があり、守礼門は「上の綾門(うぃーぬあいじょう)」、中山門は「下の綾門(しむぬあいじょう)」と呼ばれ、扉のない牌楼様式の門だったとされています。守礼門は、戦災で消失後、昭和33年(1958)に再建され、昭和47年(1972)に沖縄県の有形文化財に指定されましたが、中山門は明治41年(1908)5月に老朽化のために取り壊され、現在も復元されておりません。今、中山門跡の前にあるのは首里琉染という染物のお店です。

綾門大道絵図

沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫より(部分)

現地の案内碑には、次のとおり記されています。案内碑のふり仮名は、読みにくいので一部、省略します。

綾門大道周辺の旧跡(あやじょう うふみち しゅうへんのきゅうせき)
琉球王国時代、海の玄関口那覇港から泊の崇元寺を経て首里城に至る道は、王国随一の公道であった。ことに「下の綾門(しむぬあいじょー)」と呼ばれた中山門と、「上の綾門(うぃーぬあいじょー)」と呼ばれた守礼門の間を中心とした幅広い道を綾門大道(あやじょーうふみち)といった。18世紀初めに作成された「首里古地図」によれば、綾門大道の周辺には、世子殿(せいしでん)である中城御殿(なかぐすくうどぅん注2)や王家別寮の大美御殿(うふみどぅん)をはじめ、王家陵墓の玉陵(たまうどぅん注3)、御客屋(うちゃくや)、さらに天界寺(注4)や安国寺(注5)など王府関連の建造物が建ち並び、王都にふさわしい景観を形づくっていた。かつて、この大道では、国王一代に一度限りの「綾門大綱(うふんなー)」(大綱引)や、毎年元日に行われる「馬勝負(んますーぶふ)」(馬術)などが催された。綾門大道周辺の旧跡は、1945年(昭和20)の沖縄戦で壊滅的な被害を受けたが、守礼門の復元、玉陵の修復、そして首里城の復元と整備が進められている。



(注1)冊封使(さくほうし、さっぽうし)…中国の明、清代に中国皇帝が琉球国王を承認ために派遣した使者。
(注2)中城御殿…琉球王国の王世子(中城王子)の邸宅である。世子殿ともいう。綾門大道にあったのは、現在の首里高校に敷地内にあった。その後、現在の龍潭通りに転居した。転居後の中城御殿について詳しくは⇒コチラから
(注3)玉陵…詳しくは⇒コチラから
(注4)天界寺…詳しくは⇒コチラから
(注5)安国寺…詳しくは⇒コチラから

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 綾門大道 


  ナビゲーションはトップページにあります。

   TOPページへ

Copyright © 2015 ハイホーの沖縄散歩 
logo