天界寺跡(てんかいじあと)と天界寺の井戸




大正時代に天界寺跡に置かれた三殿内(石碑の写真をcopy)



首里古地図(石碑の写真をcopy)

琉球王朝時代、当時の海の玄関口は那覇港で、泊の崇元寺を経て首里城に至る道は、王国随一の公道でした。ことに「下の綾門(シムヌアイジョー)」と呼ばれた中山門(ちゅうざんもん)と、「上の綾門(ウィーヌアイジョー)」と呼ばれた守礼門の間を中心とした幅広い道を綾門大道(アイジョーウフミチ)といいました。天界寺は、守礼門と玉陵の間にありました。現在は、首里城公園管理センターが建っています。なお、中山門は、今はありません。

現地の案内碑には、次のとおり記されています(原文のまま)。
天界寺跡(テンカイジアト)
琉球王国時代の臨済宗の寺院跡
天界寺は、第一尚氏第六代国王尚泰久(しょうたいきゅう)が、景泰(けいたい)年間(1450〜56年)に創建したとされる。山号は妙高山(みょうこうざん)、開山は渓隠安潜(けいいんあんせん)禅師。 創建当初の伽藍(がらん)は、寝室・方丈(ほうじょう)・東房・西房などで、尚徳(しょうとく)王(第一尚氏第七代国王)代の1466年に大宝殿(だいほうでん)が建立され、また、成化己丑(せいかきちゅう)(1469年)鐘銘の梵鐘も掛けられた。1576年、火災により焼失したが、順治(じゅんち)から康煕(こうき)年間にかけて、堂宇が建立され、再興された。天界寺松尾(ティンケージマーチュー)と呼ばれた東隣の松林を含む寺域は約1,080坪余であった。
再興後は、尚泰久王・尚徳王の位牌のほか、第二尚氏の未婚の王子・王妃が祀られ、円覚寺(えんかくじ)・天王寺(てんのうじ)とともに尚家の菩提寺(三ヵ寺)の一つとなった。国王の元服や即位の際には、三ヵ寺詣での慣わしがあった。
1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後は、尚家の私寺となったが、後に払い下げられた。1913年(大正2)頃、跡地の北東隅に、首里(シュイ)・儀保(ジーブ)・真壁(マカベ)の3人の大阿母志良礼(ウフアンシタリ)(王府の高級神女)の神殿を統合した「三殿内(ミトゥンチ)」が置かれ、信仰を集めた。
天界寺松尾には、1886年(明治19)、首里小学校(後の首里第一尋常高等小学校)の校舎が建てられたが、1912年(明治45)に、校舎狭隘のため首里城内へ移転した。跡地は採石場となり、さらに、1915年(大正4)には、大正天皇即位祝賀を記念して、沖縄県師範学校の記念運動場が開設された。
1945年(昭和20)の沖縄戦により、三殿内は消失し、天界寺の寺域跡は、住宅地となったが、1992年(平成4)の首里城復元に伴い整備され、道路及び首里城公園の一部(レストセンター・管理棟)となった。
なお、1697年に掘られたという天界寺の井戸(那覇市指定文化財)が、現在も残されている。

《ご参考》文中の景泰、成化、順治、康煕は、いずれも中国の年号。







このあたりの地盤は、琉球石灰岩の分厚い層が広がっているため、なかなか地下水を掘りあてることができませんでした。
「球陽(琉球王府の歴史書)」によれば、1697年に天界寺の僧侶の了道が蔡応瑞(久米村の学者)に頼んで、場所を選んで、掘ったところ、願いがかなって地下水を掘りあてることができたそうです。
この井戸水は、水質もよく、日照りにもかれることがなかったため、寺院だけでなく、付近の住民にも利用されてきました。
井戸の内部は ほぼフラスコ状になっており、岩盤を垂直に掘り下げながら、下へ向かって幅を広げ、水面の付近ではほぼ球形になっています。井戸口に接して、滑車を下げるための柱の跡があり、左右の石垣の上には、屋根をかけるための角柱形の石が残されています。
平成5年(1993)、那覇市の指定文化財になっています。

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 天界寺跡 


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