玉陵(たまうどぅん)


玉陵全景

戦前の資料を基に昭和52年に修復され往時の姿を取り戻した

玉陵石碑


平成30年、国宝指定へ
国の文化審議会は、平成30年10月19日、「玉陵」を国宝に指定することを文科相に答申しました。県内の建物で国宝に指定されるのは初めです。近く、官報の告示により正式に指定されます。沖縄は戦前には守礼門や園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)など22件もの建造物が国宝に指定されていましたが、多くが戦災で消失し、復元されたものは国宝には指定されにくく、また、破壊が一部で済んだものでも重要文化財に留め置かれたため、「琉球王国尚家関係資料」(歴史資料)以外には国宝はありませんでした。

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玉陵は、第二尚氏王統の陵墓です。第二尚氏というのは、金丸を始祖とし、尚円王と名乗って即位した1469年から1879年までの410年間、琉球王国を統治した王家の通称です。金丸は、クーデターによって第一尚氏(注1)を滅ぼして、第一尚氏と同じ尚姓を名乗ったので、区別するため第二尚氏と呼ばれます。なお、玉陵の『玉』は、『王』を意味するのですが、畏れ多いということで、点をつけて『玉』の文字を使っています。王の座るところを玉座(ぎょくざ)というのと同じ使い方でしょう。

玉陵は、1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、墓室は、中室、東室、西室の三室に分かれています。中室は当時琉球国の葬制によって、葬儀後の遺骸は骨になるまで放置し、数年後に骨を取り出して洗骨する場としました。つまり、洗骨前の遺骸を安置する部屋です。創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には、王及び王妃以外の王族の骨壷が納められました。全体の造りは、当時の板葺き屋根の宮殿を表した石造建造物になっています。墓域は2.442u(テニスコート9面分くらい)。沖縄戦で東室・西室が破壊されるという大きな被害を受けましたが、昭和49年(1974)から3年余りの歳月をかけ、修復工事が行われ、往時の姿を取り戻して今日に至っています。

昭和47年(1972)5月15日に玉陵墓室石牆(たまうどぅん ぼしつ せきしょう)が国指定有形文化財建造物に、玉陵は国指定記念物史跡に指定されました。また、平成12年(2000)12月には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」(注2)として世界遺産に登録され、平成30年10月、国宝に指定されることが答申されました。

この玉陵には、被葬者の資格を記した碑、いわゆる「玉陵の碑文」が外庭にあります。この碑文は、当時にしては珍しい仮名書きで記されています。
そこには、次のとおり記されています。

玉陵の碑文
1. 首里おきやかもひかなし、まあかとたる、しよりのミ御ミ事(首里、於義也嘉茂悲加那志、真嘉戸樽…尚真王)
2. 御一人よそひおとんの大あんし、おきやか(世添御殿の大按司、宇喜也嘉…尚円王妃、尚真王母)
3. 御一人きこゑ大きみのあんし、おとちとのかもいかね(聞得大君の按司、音智殿茂金…尚真王妹)
4. 御一人さすかさのあんし、まなへたる(佐司笠の按司、真鍋樽…尚真王長女)
5. 御一人中くすくのあんし、まにきよたる(中城の按司、真仁堯樽…尚真王五男。後の尚清王)
6. 御一人ミやきせんのあんし、まもいかな(今帰仁の按司、真武太金…尚真王三男。具志川御殿1世)
7. 御一人こゑくのあんし、まさふろかね(越来の按司、真三良金…尚真王四男。向氏嘉味田殿内1世)
8. 御一人きんのあんし、まさふろかね(金武の按司、真三良金…尚真王六男)
9. 御一人とよミくすくのあんし、おもひふたかね(豊見城の按司、思武太金…尚真王七男)
この御すゑは千年万年にいたるまて、このところに、おさまるへし、もしのちに、あらそふ人あらハ、このすミ見るへし、このかきつけそむく人あらハ、てんにあをき、ちにふしてたたるへし(意味は、この書き付けに背くならば、天に仰ぎ、地に付して祟られる)  大明弘治十四年九月大吉日

このように、9名の玉陵に埋葬される被葬資格のある者を書き付けています。その有資格者とは、尚真王、宇喜也嘉、尚真王の妹、尚真王の長女、二男の尚清(世子)、他に三男から七男までとなっています。

この碑文の本当の意図は、尚真王の長男・尚維衡、浦添王子朝満が葬られるのを排除することを目的にしているとされています。朝満は尚真王の長男で世子でしたが、尚円王の妻、宇喜也嘉(おぎやか)が尚宣威と血が繋がるのを嫌ったため廃嫡され、王位に就くことができませんでした。この碑文は、尚真王の母である宇喜也嘉の意向を汲んで刻まれたとも言われています。しかし、実際は尚真王が亡くなり尚清王が即位すると、長男の尚維衡もこの玉陵に移葬されていて、この石碑の掟は守られなかったようです。また、この碑文を書かせたといわれる宇喜也嘉も、この墓には葬られることはありませんでした。生前は権勢をほしいままにした宇喜也嘉も、死後は王家の一族とは見なされなかったのです。王家から排除された理由について、詳しくは、⇒ こちらから

首里城から歩いても遠くありません。首里城見学のお帰りには、ぜひ、こちらもお立ち寄りください。なお、玉陵は、「たまうどぅん」と読みます。「たまうどん」ではありません。


戦前の玉陵 尚敬王の厨子甕
戦前の玉陵(展示室の資料をcopy) 第13代尚敬王の厨子甕(展示室の資料をcopy)
玉陵の碑文

玉陵の碑文
玉陵の内部

戦前の玉陵東室の内部(展示室の資料をcopy)
古地図

琉球王朝時代の古地図(沖縄県立図書館デジタル書庫より)
第一門 第二門
第一門 第二門
欄干

欄干には龍や鳳凰の彫り物が
石彫り獅子
  玉陵を守護する屋根上の石彫り獅子

(注1)第一尚氏…南山の佐敷按司であった思紹(ししょう)を始祖とし、7代63年間(1406年- 1469年)続いた琉球最初の統一王朝をつくりあげた王家およびその姓の通称。始祖は思紹となっていますが、実質は、その子、尚巴志(しょうはし)が、琉球を統一しました。

(注2)琉球王国のグスク及び関連遺産群…沖縄本島南部を中心に点在するグスクなどの琉球王国の史跡群から構成されるユネスコの世界遺産(文化遺産)のことです。
今帰仁城跡(なきじんじょうあと)、座喜味城跡(ざきみじょうあと)、勝連城跡(かつれんじょうあと)、中城城跡(なかぐすくじょうあと)、首里城跡(しゅりじょうあと)、園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)、玉陵(たまうどぅん)、識名園(しきなえん)、斎場御嶽(せいふぁうたき)の9史跡。 なお、沖縄では「城」は、通常は「ぐすく」と読みますが、遺産の登録は「じょう」としています。ですから「中城城」は、パンフレットには、「なかぐすくじょう」と表記されていますが、正式な読み方は「なかぐすくぐすく」です。

このページは、HP「玉陵 Naha City」、Wikipedia、渡久地十美子著「宇喜也嘉の謎」などを参考に作成しました。


地図をご覧になる方はコチラから ⇒玉陵 首里城の駐車場が民間の駐車場をご利用ください。


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