ハイホーの沖縄散歩=南部地区=
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上の写真は、南城市富里にある主留前殿内です。「しゅるめーどんち」と読みます。ここ富里(ふさと)の地は、第一尚氏・第六代王尚泰久(しょうたいきゅう)の長男-安次富加那巴志("安次富金橋"という表記もあり)(注1)、次男-三津葉多武喜(注2)、四男-八幡加那志(注3)が、首里より田舎下りして仮住まいしたところが この岩陰です。
その背景には、次のような事情がありました。
第六代尚泰久王の死後、王位は長男の安次富加那巴志ではなく、異母弟の三男の尚徳に継承されました。尚徳の母は宮里阿護母志良礼(注4)で泰久の側室でした。ですから、尚徳は側室の子だったのです。それに対し、尚泰久の長男の安次富加那巴志の母は正室だった護佐丸(ごさまる)(注5)の娘です。護佐丸は尚氏に仕えた有力按司の一人でしたが、讒言により謀反を疑われて城を攻められ自害しました。つまり、当時は尚泰久王に反逆した謀反人とされていたのでした。そのため、正室の子で、第一王子でもあったにもかかわらず、安次富加那巴志は王にはなれなかったのです。
護佐丸が討ち取られると、安次富加那巴志は、次男の三津葉多武喜、四男の八幡加那志を伴って富里の地に仮住まいしたのです。その後、安次富加那巴志は安次富グスク、三津葉多武喜と百十踏揚(注6)は大川グスク、八幡加那志は仲栄真(なかえま)グスクに居を構えたと伝えられています(長女の百十踏揚は、鬼大城(注7)の側室となりましたが、鬼大城が第二尚氏によって討たれた後、尚泰久の次男、三津葉多武喜を頼って玉城に落ち延びたといわれています)。
上の写真のように周囲の岩陰には拝所が点在し、また平らところには、一列に並べられた屋敷跡を偲ばせる敷石も確認できます。「主留前殿内」の名称は、住み着いた安次富加那巴志らの服装、言葉遣い、態度が田舎の者とは違っていましたので、住民たちが敬意を称して呼んだといわれています。戦前は史跡として保存されていたのですが、戦時中、住民の避難所として使われたので荒廃してしまいました。
(注1)安次富加那巴志(あしとみのかなはし)…安次富金橋ともいい、第一尚氏時代の第六代王「尚泰久」の長男(第一王子)⇒ こちらをご参照。
(注2)三津葉多武喜(みつばたぶき)…第一尚氏時代の第六代王「尚泰久」の次男 ⇒ こちらをご参照。
(注3)八幡加那志(はちまんがなし)…第一尚氏時代の第六代王「尚泰久」の四男。仲栄真グスクで第一尚氏復活のための作戦を練ったといわれている。⇒ こちらをご参照。
(注4)宮里阿護母志良礼(みやざとあごもしられ)…宮里は現在の沖縄市越来(ごえく)で、阿護母志良礼というのは側室の名前で、正室は、佐敷按司加那志と称した。
(注5)護佐丸(ごさまる)…15世紀の琉球王国(中山)の按司。恩納村出身。勇猛果敢な武将として知られ、与論島では泣く子供に「護佐丸がチューンドー(来るぞ)!」と言うと泣き止んだと伝えられている。子孫は、豊見城間切の総地頭職に任ぜられ、豊見城親方盛親を名乗った。その後、一族からは三司官をはじめ、首里王府の主要な役職に多数が就き、琉球屈指の名門の一つとして栄えた。護佐丸の門中(一族)は、現在5万人とも10万人ともいわれる。
(注6)百十踏揚(ももとふみあがり)…第一尚氏時代の第六代王「尚泰久」の長女 ⇒ こちらをご参照。
(注7)鬼大城(うにうふぐしく)…本名は越来賢雄(ごえくけんゆう)、15世紀琉球王国の武将。金丸のクーデターで、第一尚氏と運命を共にしたという。
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現地の説明板 | 主留前殿内に現存する拝所 |
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上の写真は豊見城按司(とみぐすくあじ)の墓です。主留前殿内に隣接しています。豊見城按司の名前は、琉球の歴史の中で複数、登場しますが、この墓は、第一尚氏・第二代王、尚巴志の妾の子といわれている豊見城按司のことです(第二尚氏の系図にも、豊見城按司朝行の名があります)。中山俊彦著『富里誌』によれば、尚泰久王の頃に豊見城按司が富里にやってきて築城し始めたとあります。ただし、仲栄真グスクを完成させたのは、尚泰久の四男、八幡加那志で、豊見城按司の甥にあたります。
地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 主留前殿内 ・豊見城按司の墓
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