百十踏揚(ももとふみあがり)と三津葉多武喜(みつばたぶき)の墓


百十踏揚の墓
百十踏揚と三津葉多武喜の墓

百十踏揚は、琉球王朝の歴史の中でも、権力争いに翻弄され、最も数奇な運命を辿った悲運な女性のひとりです。百十踏揚は「ももとふみあがり」と読みます。この名を知ったのは、渡久地十美子さんの著書『ほんとうの琉球の歴史』に登場していたからですが、一度聞いただけでは覚えられない名前で、何度もルビのあるページに戻りました。大和の歴史でも箸墓(はしはか)古墳に眠る倭迹迹日百襲姫命は「やまとととひももそひめのみこと」と読み、なかなか覚えられませんでした。「ももとふみあがり」は、それに比べれば覚えやすいですが…。

では、初めてこの名前を目にする方もおられると思うので、簡単にご説明すると、百十踏揚は、第一尚氏、第六代王の尚泰久の長女で、初め勝連按司(注1)の阿摩和利(あまわり)に嫁ぎました。しかし、百十踏揚は阿摩和利に謀反があると父尚泰久に訴えたため、阿摩和利は滅ぼされてしまいました。その際、百十踏揚の従者であった鬼大城(うにうふぐしく)は阿摩和利を討ち取ったあと、百十踏揚を背負って城から脱出したといいます。その後、百十踏揚は、阿摩和利追討に手柄があった鬼大城の側室となりました。しかし、その後、鬼大城は第二尚氏の尚円金丸によって殺されてしまいましたので、百十踏揚は、尚泰久の次男、三津葉多武喜(みつばたぶき(注2))を頼って玉城(たまぐすく)に逃れました。

しかし、渡久地十美子さんの著書「ほんとうの琉球の歴史」には、こんなことが書かれています。
「尚泰王の王女であった百十踏揚に、側近の鬼大城が惚れたが、勝連按司の阿麻和利に嫁いでしまった。鬼大城は、尚泰久に阿麻和利が王位を狙っている疑いがあると讒言して阿麻和利を殺し、百十踏揚を奪い取ってしまった」
つまり、阿麻和利に謀反の疑いがあると尚泰久に訴えたのは、百十踏揚ではなく、すべて鬼大城の悪だくみだったのです。百十踏揚は、死ぬまで最初の夫、阿麻和利を慕っていたと、渡久地十美子さんは語っています。

阿麻和利は、首里王府への反逆者として沖縄の正史「中山世艦(注3)」に記述されていますが、自らの政権に都合のいいことしか書かない歴史書のなかの話ですので、本当に反逆者だったかどうかは分かりません。しかし、おもろさうし(琉球の歌謡集)には阿麻和利をたたえる歌が多く残されており、本当は、逆賊ではなく、勝連を発展させ、真に領民に慕われた王であると、近年、再評価されています。なお、阿麻和利は、幼名を「加那(カナー)」といい、これは当時の琉球においてはごく一般的な名前で、本土でいう「太郎」的なものだそうです。阿麻和利と言われた由来は、天降り(あまおり)、つまり天から降りてきたという意味で、民衆から慕われていたことが想像されると、HP「勝連の星 阿麻和利」には記されています。

なお、百十踏揚の墓は、西ヒチ森の大岩に安置されていましたが、昭和37年、中学校校舎建設のため現在の場所に移葬されました。三津葉多武喜の墓はその住居跡と伝わる大川グスクにあったのを百十踏揚と同じ墓に移葬されたものです。

下の写真は、百十踏揚と三津葉多武喜のお二方の名が書かれた墓名板ですが、百十踏揚は「加那志(注4)」と敬称が付けられているのに、三津葉多武喜は呼び捨てです。三津葉多武喜は、国王にはなれませんでしたが、尚泰久王の次男なのですから、少なくとも「王子」と敬称をつけて当然だと思うのですが、呼び捨て表示は不自然に思えます。
なお、百踏揚は、百踏揚と表記される場合もあります。



(注1)按司(あじ)…琉球の 古代共同体の首長の呼称。また、王族のうち、王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)のこともいいます。このほか王妃、未婚王女、王子妃の称号にも用いられました。

(注2)三津葉多武喜(みつばたぶき)…尚泰久の次男。王子なのですが、長男と同じく母が謀反人護佐丸の娘でした。

(注3)中山世艦(ちゅうざんせいかん)…琉球の最初の史書。神話の時代から尚清王代の1555年までの記述ですが、薩摩の支配下にあったころに作られたものなので、客観性を欠いており、時の政権者に都合の悪いことは省かれたり、脚色されているので問題点が多いとされています。

(注4)加那志(がなし、ぢゃなし)…敬称で「~様」というような意味。芭蕉布という歌の3番に「今は昔の首里天加那志」という歌詞がありますが、琉球国王様という意味です。



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