天山陵(てぃんさんりょう)


天山陵


1469年4月、第一尚氏七代王・尚徳の喜界島外征中のスキをついて、臣下の金丸(注1)の軍勢は首里城に襲い掛かりました。第一尚氏派の群臣は次々と虐殺され、金丸一派による王府乗っ取りは成功しました。その際、王妃と乳母は幼い王子を連れて城内の真玉森(まだまむい)に逃れましたが、兵士によって発見され一人残らず殺戮されました。その亡骸は、城の南西側崖から外に放り投げられました。そのとき、王妃のクンダ(腓−ふくらはぎ)が、木の枝に引っかかったそうです。それ以降、この場所をクンダグスクと呼ぶようになったと伝えられています(クンダグスクの項は、「琉球王国ぶらぶら散歩」おおきゆうこう著より)。ここでいう "グスク" は、城という意味ではないようです。その後、金丸は堂々と首里城に入り、尚円王と名乗り、ここに第二尚氏王統を開いたのです。

天山陵は、第一尚氏の王の陵墓だったところです。場所は龍潭池から北西に200メートルほどのところにありました。金丸はクーデターで政権を握ると、第一尚氏の墓所であるが天山陵を焼き討ちにしようとしました。その噂を察知した第一尚氏の一族・屋比久子(やびくしー)と平田子(ひらたしー)や子孫たちは遺骨を運び出して、それぞれの王のゆかりの地に隠したそうです。それで第一尚氏の各王の墓は、第二尚氏の「玉陵(注2)」「山川陵(注3)」など、まとまって埋葬されておらず、現在も分散しているのです。なお、名前の「子」は敬称です。



天山陵 天山陵

首里の古地図、右は4の部分の拡大地図(沖縄県立図書館、貴重資料デジタル書庫からお借りしました)


遺骨は、初代の思紹は南城市航空自衛隊知念分屯地内、二代〜四代目の巴志・尚忠・思達は読谷山間切伊良皆 佐敷森の山奥の岩穴、五代目の金福は浦添間切城間村のシリンガー原の岩の洞穴(現在は米軍基地内)、六代目泰久は、乳母の出身地、美里間切伊波村の岩穴(現在のうるま市石川伊波)、なお、場所を転々と移した遺骨もありますので、ここに挙げた以外にも同じ王の墓跡が各地にあります。また、第一尚氏最後の七代目尚徳王については、那覇市識名に尚徳王陵墓跡の碑があり、クーデター後、本島に戻って身を隠していましたが、没後、那覇市識名に埋葬されたといわれています。ただし、尚徳については、本島に戻る途中、行き合わせた漁船から王家の虐殺と金丸の即位を聞き、憤って海に身を投げたとか、それまで戦をしていた喜界島に戻った、久高島で第二尚氏一派に惨殺された、宮古島に逃れたなどの諸説があり、本当のことは分かりません。また、尚徳が喜界島遠征の後、まっすぐ首里に戻らず、久高島で愛人と逢瀬を楽しんでいた間に金丸がクーデターを起こしたともいわれています。詳しくは⇒コチラから。リンク先のページの(注5)をご覧ください。

なお、六代泰久王の墓は、当時は泰久の墓であることを隠すため「クンチャー墓(意味は乞食墓)」と呼ばれていました。明治41年ころに第二尚氏からの迫害の恐れがなくなったことから、王の長男である安次富加那巴志の墓(墓南城市玉城富里)の隣に子孫たちの手によって移葬されました。

天山陵は、現在、私有地で、民家の庭になっていますので一般人は入ることができません。安里 進氏(前沖縄県立博物館・美術館館長)は、「天山陵は掘抜き式の墓陵で、墓口をふさぎ漆喰(しっくい)で化粧した思われ、修復された浦添ようどれのような形をしていた」と述べておられます。ネット情報では、石の台座などが残っているらしいのですが、土地の所有者は、一人でも見学を許可すると他の人を断れないので、一般人は許可しないということです。この辺りは、普天間宮発祥の地から大和井戸に至る道筋です。これまで数回、歩いていますが、先日、崎山町のヒジガービラに行く途中、どこかに写真を撮れそうなところはないかと、天山陵の1本北側の道路をウロウロしていました。すると、通りがかりの年配のご婦人から「何か探しているの?」と声を掛けられましたので「天山陵を探しています」と言うと、「私の家の前だから、塀を乗り越えれば行けますよ」というご返事。一瞬、チャンスかと思いましたが、無許可で隣家に入ると不法侵入で警察のお世話になるかもしれないので、丁重に遠慮させていただきました。しかし、この辺りは傾斜地です。塀を乗り越えても天山陵とは高低差がありますので、戻ることができないかもしれません。遠慮して正解だったと思います。



天山陵

貴重な画像を見つけました。尚巴志王陵?(首里)とあります。
この画像は、大正13年に伊東忠太さんが残した天山陵のスケッチです。
先の大戦で消失しましたが、掘込墓にアーチ形の墓口と窓を設けて板戸を取り付け、
墓室内には青石製の基壇宮殿型石厨子を安置し、墓庭は石牆で囲い込む構造で
第II期浦添ようどれと同型式の王陵だったと考えられます(日本建築学会所蔵)。


沖縄では、新暦4月の清明祭で先祖供養を行いますが、第一尚氏の末裔たちは、今でも清明祭には先祖供養をしないそうです。その日に一族が集まって清明祭を行うと、第二尚氏から一網打尽にされるかもしれないという危惧があり、9月23日に「隠れ清明祭」と称して県内各地に散った一門が集まり、ごちそうをささげ、王家の供養と御先祖様に感謝し、一族の繁栄を祈っているそうです。ところが、互いに第一尚氏の末裔であることを隠していたので、集まっても互いに話すことはしなかったといいます。第一尚氏滅亡から500年以上も血統を隠しているのです。(この話は、一部、第一尚氏の末裔、宮城春子さん談を参考にしました)

(注1)金丸…第二尚氏の初代の王。1415年、伊是名島に生まれる。27歳のとき、当時越来王子であった尚泰久に仕え、その後、尚思達、尚金福、尚徳と、都合、四人の王に仕えた。
(注2) 玉陵…コチラから
(注3) 山川陵…コチラから

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 天山陵地図 天山陵は公開されていませんので、首里池端町の場所を表示しています。実際は池端町と山川1丁目の間くらいです。


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