真境名安興(まじきな あんこう)の生家跡


真境名安興全集



真境名安興(まじきな あんこう)は、沖縄では高い評価を受けている文化人です。郷土史料関係の本を読んでいると、よく、お見かけする名前です。ほかにも伊波普猷、東恩納寛惇の名前も歴史関連の本にはひんぱんに出てきます。それぞれ、「いは ゆふう」、「ひがしおんな かんじゅん」と読みます。お二方とも、沖縄ではとても名の知られた先生です。

歴史博物館の史料によれば、真境名家は毛氏(もううじ)池城殿内(どぅんち)の分家で、1875年、首里桃原(とうばる)に生まれました。今でも首里桃原あたりは、第二尚家の王家の邸宅や羽地朝秀(はねじちょうしゅう)、宜湾朝保(ぎぼちょうほ)などの王家の末裔たちの生家跡が残っています。

真境名は1891年、沖縄尋常中学校に入学。同期に沖縄学の父とされる伊波普猷や照屋宏(てるやひろし:後の那覇市長)、漢那憲和(かんなけんわ:後の海軍少将)らがいました。1895年の中学ストライキ事件(注)では、首謀者の一人として伊波らとともに退学処分となりましたが、後に復学し、1897年、中学を卒業しました。

伊波や照屋らが東京などへ遊学するなか、真境名は沖縄に残り、「琉球新報」記者、また首里地区書記などを務めました。1925年には、初代館長伊波の後を継いで第二代の県立図書館長となり、図書館の充実にも奔走しました。一方で沖縄郷土協会の会長、沖縄史跡保存会のメンバーとして、文化・社会活動も行いました。研究者としての真境名は、資料に基づく実証的な研究を行い、伊波との共著で「琉球の五偉人」(1916)、「沖縄女性史」(1919)を著したほか、「沖縄教育史要」(1929)、「沖縄現代史」(1937)も刊行しました。なかでも、「沖縄―千年史」(1923)は、戦前の沖縄通史の白眉とされ、今日でも高い評価を受けています。1933年、那覇市泉崎にて死去。享年58歳でした(以上、主に那覇市歴史博物館史料より)。

(注)ストライキ事件…1895年(明治28年)10月から翌年3月までの6か月にわたり、沖縄県尋常中学校(現・沖縄県立首里高等学校)の生徒らが、校長の辞職・退陣と教育の刷新を求めて展開したストライキ事件。一中ストライキ事件とも言う。
本土より赴任した校長の児玉喜八が、英語の授業を廃止しようとし、生徒らは差別意識が露わな校長の沖縄同情論に激怒した。このときは、生徒に信頼のあった下国教頭の説得で、英語を選択科目として設置することで騒ぎは収まった。しかし、翌年10月、児玉校長が下国教頭を休職とし、沖縄文化に理解のあった田島利三郎教諭を解雇処分にしたことで生徒の怒りが爆発し、校長の退陣を求めて半年に及ぶストライキを敢行した。
当時生徒だった伊波普猷ら有志数人は、五月雨方式で退学届を提出して学校当局と県庁に揺さぶりをかけると同時に、下級生を含む全生徒を仲間に引き入れるという二面作戦を決行した。有志の演説を聴いた大半の生徒が同調して退学届を出したため、中学校は11月12日から実質的なストライキに突入した。この力を背景に、生徒代表は児玉校長に辞職勧告を堂々と通知した。
これに対して児玉校長は、伊波普猷、漢那憲和、照屋宏、真境名安興、屋比久孟昌、ら5人の生徒に、騒動の首謀者という理由で文部省令を盾に退学処分を下したが、この処分は火に油を注ぐようなものだった。その後も生徒たちは、新聞に彼らの主張を発表し、文部大臣に建白書を提出した。
世論も生徒らの行動を全面的に支持したため、翌1896年(明治29年)、児玉校長は紛争の責任を問われて解任され、ストライキは中学生側の勝利に終わった。しかし運動を指導した漢那憲和や伊波普猷の復学は認められなかった(Wikipediaより)。

・伊波普猷の生家跡については、⇒ コチラから
・伊波普猷の墓は、⇒ コチラから
・宜湾朝保の生家跡については、⇒ コチラから

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 真境名安興の生家跡 

 

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