宜湾朝保(ぎわんちょうほ)生家跡と墓




宜湾朝保は、明治初期、琉球王国が廃され琉球藩とされたとき、三司官(注1)として東京に出向き、これを受諾した使者でした。朝保は「琉球が生き延びるには日本の一部になるしかない」と考えていたのでした。しかし、このとき亡国の危機を憂いた親清国派の頑固党(注2)の士族たちから「売国奴」と呼ばれ、激しい非難の集中砲火を受け、やむなく三司官の職を辞すことになりました。朝保は、その翌年、病のため死去し、さらにその3年後、琉球王国は沖縄県となりました。

「野にすだく 虫の声々かまびすし たが聞き分けて品定めせむ」  宜湾朝保

宜湾朝保は当代一の国際感覚を持った政治家であり、歌人としても有名で、「沖縄最高の歌人」と紹介されるほどの文化人でしたが、失脚後は不遇な晩年を送りました( JCCweb美術館より)。生家跡は私の散歩コースですので、よく前を通りますが、ゴミが散乱していることもあり、掃除も行き届いていない様子です。

現地の案内板には、次のとおり記されています(原文のまま)。(注)は管理人が注釈を書き加えました。
琉球処分直前の三司官(さんしかん)で、和歌人としても著名な宜湾朝保の生家跡。
宜湾朝保は、1823年に首里(しゅり)で生まれた。生家の宜湾家は向氏(しょううじ)小禄御殿(うどぅん)の分家で、宜野湾間切(ぎのわんまぎり)の総地頭家(注3)でもあり、三司官を二人も出した名家である。
宜湾は、表(おもて)十五人の名職を歴任し、1862年に三司官に任じられた。1868年に明治政府が成立すると、1871年に維新慶賀使(いしんけいがし)の副使として上京した。尚泰(しょうたい)を琉球藩王にするとの命を受け、喜んで帰国した。
1875年に琉球処分が具体化しはじめると、宜湾ら維新慶賀使の責任として世の非難を浴び、同年に三司官を辞職した。翌年失意の内に54歳の生涯を閉じた。 宜湾は、王朝時代を代表する和歌人で、後に宮中歌道御用掛(きゅうちゅうかどうごようがかり)となった薩摩(さつま)藩士八田知紀(はったとものり)に師事し、和歌集『沖縄集』・『沖縄集二篇』を編集した他、私歌集に「松風集」がある。
なお、宜湾の家名は、尚泰の次男尚寅(しょういん)が1860年に宜野湾間切を領して宜野湾王子と称したため、同名を避けて改名したものである。



(注1)三司官(さんしかん)…琉球王国の宰相職のことで、首里王府の実質的な行政の最高責任者です。
(注2)頑固党(がんことう)… 琉球処分時の親清国派の士族集団。琉球の日本統合に反対、琉球王府の維持・存続を主張しました。その中心人物は亀川親方盛武でした。
(注3)総地頭(そうじとう)…琉球王国で親方の地位にある者が一間切を采地(領地)として賜った場合、総地頭と呼ばれました。惣地頭と表記することもあります。



生家跡の地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 宜湾朝保生家跡 ゆいレール儀保駅の近くです。駅から首里駅方向に100メートルほど歩き、郷土料理「てんさぐ」の角を右折します。最初の四つ角を過ぎたすぐ左のらせん階段の下に碑が立っています。その先に「ちんすこう」の本家、新垣菓子店があります。



那覇市の大名公民館の前にある町内絵地図を見ていたら、宜湾朝保の墓が記されていました。地図に従って墓を探しましたが、行きつくことができませんでした。後日、公民館のある所とは反対側の浦添市澤岻(たくし)側の道路から尚寧王の道をたどって探してみました。そして琉信第一大名団地の広い道路から南に抜ける道を見つけたので行ってみました。途中、左側の奥まったところに大きめの墓を見つけたました。墓名碑を確認したら宜湾朝保の名が見られたので、撮影してきました。

なお、宜湾朝保は、晩年は不遇でしたが、琉球の五偉人のひとり(注4)とされ、琉球王朝最後の政治家といわれています。

(注4)『琉球の五偉人』(りゅうきゅうのごいじん)は、伊波普猷(いは ふゆう)と真境名安興(まじきな あんこう)による共著で1916年に発刊された。そのなかで紹介されている五偉人とは、次のとおり。

・麻平衡・儀間親方真常(唐名まへいこう:ぎま しんじょう)
中国から伝来したサツマイモの普及に尽力し、黒砂糖の製造法の習得と普及につとめる。尚寧王の日本行にも随行し、木綿織の技法を持ち帰った。琉球産業の恩人として知られ、那覇の世持神社に祀られる。

・向象賢・羽地按司朝秀(唐名しょう・しょうけん:はねじ ちょうしゅう)
薩摩侵入後の琉球の政治方針を確定。政と祀を分離するなどの改革を行うほか、『中山世鑑』の編纂もおこなった。尚質王・尚貞王の摂政を勤め、王子位に昇る。琉球に「黄金の箍」を嵌めた人物。

・程順則・名護親方寵文(てい・じゅんそく:琉球名なぐうぇーかた・ちょうぶん)
篤学者。琉球における最初の学校明倫堂創設の建議や、中国より持ち帰り『六諭衍義』を頒布するが、これが日本にも広まり江戸・明治期の庶民教育の基盤となった。

・蔡温・具志頭親方文若(さいおん:大和名ぐしちゃんウェーカタぶんじゃく)
三司官としてさまざまな政治改革を行い、琉球の発展に寄与した。史書編纂事業にも力をそそぎ、親子二代にわたって『中山世譜』を編纂している。

・向有恒・宜湾親方朝保(唐名しょうゆうこう:ぎわん ちょうほ)
王朝時代末期の三司官として、琉球の近代化への扉を開いた。また私人としては和歌に親しみ、八田知紀に師事。当代きっての優れた歌人であった。
 





写真では分かりにくいが宜湾朝保の文字が読めた 公民館前の絵地図


宜湾朝保の墓は、このあたりです。 ⇒ コチラから

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