生りぬ御願(うまりのうがん)


ジャジュン之殿
ジャジュン之殿(ザズンの殿、茶屯之殿)


旧暦の8月10日、南城市玉城(たまぐすく)百名(ひゃくな)地区では、「生りぬ御願(うまりのうがん)」という行事が行われます。これは その年に生まれた子どもたちの健康および百名区民の無病息災を祈願するもので、区内の御嶽や井泉を参拝します。私はこの行事を写真でしか見たことがないのですが、御願の参拝順に拝所を廻ってきました。それに沿ってご紹介しましょう。

百名公民館の向かいにあるジャジュン之殿(とぅん)は、生りぬ御願の行事の最初にお詣りするところです。現地の石碑には次のとおり記されています。

ザズンの殿(とぅん)
この社殿は玉城村字百名の拝所「ザズンの殿」です。古くは「ジャジュンノ殿」「茶屯之殿」とも書かれました。
殿は御嶽の山に鎮座する祖先神を村落内にお招きしておもてなしをする祀りの場所です。
昔から毎年旧暦二月三日の麦のウマチー(穂祭)と五月 六月の稲のウマチー(穂祭)に玉城ノロの主宰で村人がうちそろって盛大な祭祀を催し、村建ての神様に感謝をささげ、農作物の豊作を祈願しました。
社殿には火ヌ神が祀ってあります。この火ヌ神から各家庭に火種を分ける行事も行われたといわれます。大正・昭和時代になると、国の一村一社の方針で、殿はお宮とか郷社とか呼ばれるようになりましたが、惜しくも去る大戦で破壊されてしまいました。
現在の殿社は、百名区民の心を一つに結ぶ聖地(シンボル)として大事に崇め区民の文化財として末永く受け継がれることを願って復元されたものです。 玉城村字百名

次は、同じ敷地内にある大城ガーとチンタカー之御嶽です。百名のバス停の脇に、こんな案内板が建っています。ジャジュンの文化財群として、「ジャジュンは高台という意味で、この一帯が小高くなっていることからこう呼ばれています。集落内でも要所であり、多くの文化財が集積しています。」とあり、五つの文化財が説明されています。その内の三つが、一ヵ所にまとめられて保存されています。中国の文字崇拝的な信仰が伝わり、文字を書いて不用になった紙を焼く「焚字炉」と、牛馬の霊を祀る御嶽、「チンタカー之御嶽」、それに大城グスク築城後に利用されていたという「大城ガー(井戸)」です。



案内板 ジャジュン之殿
ジャジュンの文化財群の案内板とジャジュン之殿
案内碑 大城ガー
現地の案内碑 「大城(うふぐすく)ガー」:グスクの東側にあり、
築城後に利用されるようになったと考えられます。
チタンカーの御嶽
チタンカーの御嶽は、牛馬の霊が祀られています。百名に伝わるクェーナ(沖縄の古謡の一つ)に
「チンダカンウルチ アシダカンウルチ」とありますが、「チン」は角で牛のこと、「アシ」は足で馬のことを意味します。
焚字炉 案内板
「焚字炉(ふんじろ)」は、中国の文字崇拝的な信仰に基づいており、文字が書かれた不用紙を焼く儀式で用いられます。市指定文化財です。


すぐ近くには、百名の見どころを書いた「百名ガイドマップ」の案内が建っていました。そこには、百名の歴史と文化について触れていました。『百名は琉球開闢の地、稲作発祥の地、おもろに詠まれた地、琉歌「百名節」発祥の地として有名です。=(中略)= 沖縄の一般的な集落と異なって、根所前之殿、安次富之殿、ジャジュン之殿、神谷里主所の殿と、四つもの殿(とぅん)があることも百名の特徴で、時代と共に権力者が移り変わって行った希有な歴史が伺えます』。ここでいう「殿(とぅん)」とは、御殿、豪邸のことで、領主・権力者の住まいです。

次は国道331号線を斎場御嶽方向に歩きます。すると道路を横断したところに「ミホ之御嶽(みほぬうたき)」の看板が現れます。雑草だらけの獣道を下ります。縁起について、南城市教育委員会の説明には、「ミホ之御嶽」には、「ミフス之御嶽」とか「ミクシヌ御嶽」という別名があり、ヤハラヅカサに上陸し、浜川御嶽で仮住まいしていたアマミキヨが、定住地のミントゥンに向かう途中、身重だった連れの女性が一休みした場所である。語源はミフス(へそ)であり、戦前までは、子供が生まれると必ず参拝し、へその緒を供えて子供の健やかな成長を祈願したとあります。



道標 ミホ之御嶽
ミホ之御嶽


国道331号線に戻り、さらに進むと、途中、左に入る道に分かれ、アイバンタ東之御嶽と同西之御嶽に向かいます。このアイバンタ御嶽については、すでに別ページにUP済ですので、⇒ コチラから



案内板 エーバンタ御嶽
アイハンタ東之御嶽


アイハンタ東之御嶽でUターンし、居酒屋百名を右に見て最初の小道を右に回ると、突き当りがアイハンタ西之御嶽で、その手前に伊波(いは)ガーと百名ガーがあります。伊波ガーは、沖縄の稲作が発祥したとされるガーです。交易のため中国に渡った伊波按司(あじ)は、国外への持ち出し禁止だった稲の種を「鶴の足」に稲穂ごと結びつけて沖縄へ向け飛び立たせたといわれ、この地に運ばれたのだそうです。 その稲の穂のうち3本が発芽し、受水(うきんじゅ)の前の狭い田にそれを植えました。 田に実った稲穂は3本だったので、その田は三穂田(みーふーだー)と呼ばれるようになりました。こうして、稲はだんだんと琉球に広がり、とうとう 国中に広まったということです。受水については ⇒ コチラから



エーバンタ西之御嶽
アイハンタ西之御嶽
案内板 伊波ガー
伊波ガー


参拝の行事は、その後、イージンガー 、本部(むとぅぶ) 、安里之殿 を経由し、大前之殿(うふめーぬとぅん)で終了します。ここでは棒術を奉納し、参加者による祝賀会で締めをするそうです。
大前之殿の前には、次のとおり記された案内板が建っています。

百名の4つの殿 根所前(にーどぅくるめー)之殿、安次富(あしとぅ)之殿、ジャジュン之殿、神屋里主所(かみやさとぅぬしどぅくる)之殿
百名には4つの殿があります。なぜでしょうか?
まず部落時代に、大前(うふめー)家(根処前之殿)と安里(あしとぅ)家(安次富之殿)が領主となり発展していったと考えられています。その後大城グスクが築城され、大前家と安里家が併合しジャジュン之殿(火神之殿)ができました。
第二尚氏(尚真王)の頃に中央集権下で地方の城主が首里に住まわせられるようになると、首里王府から神谷村(百名村)地頭職を賜った周氏島袋親雲上(ぺーちん)(後の神谷里主)が力を持つようになります。このような経緯から、「殿」と名のつく旧家が4ヵ所も存在するのです。
これらに並ぶ旧家として本部(むとぅぶ)家があります。百名白樽(ひゃくなしらたる)という人が久高島に渡り穀物を発見したという伝説が百名にはありますが、この白樽の生家が本部です。戦前までは久高島と本部家等とは、年3回、贈答しあう慣わしだったといいます。
南城市教育委員会 平成27年3月設置



安里之殿 大前之殿
安里之殿(民家の敷地内ですので沖縄放浪日記さんからお借りしました) 大前之殿
大前之殿 案内板
大前之殿と百名4つの殿の案内板

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ ジャジュン之殿のある百名公民館 公民館にも駐車場がありますが、私が出かけた日は公民館で行事を行っていたので、車は大前之殿の駐車場(上の写真の鳥居の西側:無人)を借りて歩いて廻ってきました。


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