馬鞭御嶽(うまむちうたき)





崇元寺之嶽(そうげんじのたき)、通称、馬鞭御嶽です。「琉球国由来記(注1)」では、コバノミヤウレ御イベという神を祀ってあるそうです。尚円王(金丸 注2)ゆかりの御嶽です。

名前の由来には、こんな話が伝わっています。
昔、安里大親(注3)が首里からの帰路、泊(地名)の実家に帰宅する途中、一休みをしていると、品のいい白髪の老人に「お茶でも飲まないかね」と誘われて立派な邸宅に招かれました。そこで碁を打ち、料理をもてなされたのですが、翌日、その場所に行ってみると、その邸宅が見つかりませんでした。しかし、その翌日、また、その老人に誘われました。帰る際に安里大親は、その場所の目印として馬の鞭を立てて帰宅をしました。翌朝、来てみると、鞭は残っていましたが、鞭を立てたところには、邸宅の面影は微塵もありませんでした。

この老人は神様であり、この場所に家を構えるようにとのお告げがありました。安里大親はそこに屋敷を建て、そののち、この敷地が崇元寺になったそうです。

『球陽(注4)』によれば、安里大親は、崇元寺(注5)の建立(諸説あります)や浮縄御嶽(おきなわの嶽 注6)の成立にもかかわったといわれています。

(注1)琉球国由来記…琉球王国の王府が編纂させた地誌です。王府が編纂した体系的な最初の地誌で、1713年に国王へ上覧されました。
(注2)尚円王(金丸)…第二尚氏の初代の王。1415年、伊是名島に生まれ、27歳のとき、当時越来王子であった尚泰久に仕え、その後、尚思達、尚金福、尚徳と、都合、四人の王に仕えました。第一尚氏滅亡後、即位して尚円(しょうえん)を名乗りました。農民の出身だったとか、本土から伊是名に渡来してきた落ち武者、また、按司の家臣だったとか諸説あります。
(注3)安里大親…第一尚氏の尚徳王亡きあと、後継の即位に際して、「虎の子は虎、悪王の子や悪王、物呉ゆすど我御主、内間御鎖ど我御王、内間御鎖ど我御主」と唱え、第二尚氏初代の金丸(後の尚円王)を擁立したとされます。金丸が御物城御鎖之側の職にあったとき、通勤のため安里の家の前を頻繁に往復しており、よく顔をあわせていたそうです。尚円王即位後、安里村(現・那覇市安里)の地頭職に任じられました。
(注4)球陽…1743年から1745年にかけて琉球王国の正史として編纂された歴史書です(以上、注釈はWikipediaより)。
(注5)崇元寺跡 ⇒ コチラから
(注6)おきなわの嶽 ⇒ コチラから


地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 碁打御嶽 崇元寺跡の東に隣接しています。


  ナビゲーションはトップページにあります。

   TOPページへ

Copyright © 2015 ハイホーの沖縄散歩 
logo