崇元寺(そうげんじ)跡


崇元寺


第二尚氏の時代に創建した崇元寺の跡です。沖縄戦で全焼し、三連のアーチ石門だけが残っています。石門は重要文化財で、歴史的建造物に指定されています。

崇元寺は1527年に建てられた臨済宗のお寺で、山号を霊徳山(れいとくざん)といいました。寺には、舜天 (注1)以下、歴代国王の位牌が祀られていました。かつては第二尚氏王統 (注2)の霊を祀る寺で、建物のあったところは、現在、公園になっており、巨大なガジュマルの木があります。石門の立派さから見て、きっと本堂や伽藍も荘厳なものだったと想像できます。

寺の石門の東西には、「崇元寺下馬碑」という石碑が建てられていました。1527年7月25日に建立されたものですが、西の石碑は沖縄戦で破壊され、東の碑は奇跡的に破壊を免れ、現在も崇元寺の東側に建っています。建てられた元の位置は道路の南側でしたが、明治時代に現在地に移動したそうです。

碑の表側には「あんしもけすもくまにてむまからおれるへし(按司 (注3)も下司 (注4)も此所にて馬から降るべし)」と書いてあるそうですが、ほとんど読めませんでした。歴代国王の霊廟である崇元寺の前を通るときは、按司のようなエライ人から下司のような身分の低い役人まで、何人も馬から降りて、歴代の国王に敬意を表しなさいということです。崇元寺の格式の高さを物語っています。
以上、Wikipediaなどを参考

下馬碑 石門正面
東の下馬碑 石門 正面から
門の入口 がじゅまる
復元された石門の扉 敷地内の「がじゅまる」の巨樹


案内碑には以下のように記されています(原文のまま)。
国指定重要文化財 建造物
昭和47年5月15日 指定
 旧崇元寺第一門(きゅうそうげんじだいいちもん)及び石牆(せきしょう)

沖縄県指定有形文化財 彫刻
昭和30年1月25日 指定
 崇元寺下馬碑(そうげんじげばひ)

崇元寺は臨済宗の寺で山号を霊徳山(れいとくざん)といった。
王府時代の国廟(こくびょう)で天孫氏(てんそんし)をはじめとする歴代の神位が安置され、冊封使(さっぽうし)が来た時には新王冊封に先立って先王を祀る諭祭(ゆさい)が行なわれた。かつて崇元寺は国宝に指定されていたが、先の大戦で正廟をはじめとする木造建築物はすべて焼失した。
第一門及び石牆は、正面中央の切石積み三連の拱門(きょうもん / アーチ門)とその左右に延びる両掖門を備えた琉球石灰岩のあいかた積みの石垣であり、 沖縄の石造拱門の代表的なものである。
石門の東に立つ石碑が下馬碑で、戦前は西にも同じものがあり、国の重要美術品に指定されていた。表はかな書き、裏は漢文で、この碑のところから下馬することを命じている。また、碑銘に「大明嘉靖(だいみんかせい)六年丁亥(ひのとい)七月二十五日」とあり、この年が1527年(尚清1年)にあたるので 崇元寺の創建はこの頃ではないかと考えられている。
平成2年3月
沖縄県教育委員会
那覇市教育委員会

崇元寺古地図

この地図の24が崇元寺。首里那覇港図屏風よりお借りした。

(注1)舜天(しゅんてん)…琉球二番目の王統を建てたとされるが、源為朝の子供だという絵空事なので、実在は疑わしい。
(注2)第二尚氏(だいにしょうし)王統…謀反によって第一尚氏を倒した金丸(尚円)を始祖として琉球王国を統治した王統。第一尚氏と区別するため、第二尚氏と呼ばれている。
(注3)按司(あじ)…13世紀頃から登場しはじめた地方の首長のことをいう。また、王妃、未婚王女、王子妃等の称号にも用いた。琉球王国の称号および位階の一つ。
(注4)下司(したづかさ)…身分の低い役人を指して称した。「げし」、「げす」ともいう。


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