馬車スンチャー


「馬車スンチャー」とは、沖縄の方言で馬車引き、荷馬車、客馬車という意味です。沖縄の馬車の歴史は、古く明治、大正時代までさかのぼります。与那原町は昔、山原船(やんばるせん)と馬車スンチャーで栄えた港町でした。大正時代には沖縄全体で700台を数え、そのうちの約200台は与那原にあったといわれています。ですから与那原には、多くの馬車スンチャーがいましたので、他の町の人が与那原と聞けば、真っ先に馬車スンチャーを連想するくらいでした 。

与那原は、「馬車スンチャー」の呼び名で広く知られ、王府時代から山原船の船着き場で、山原船が運んできた材木、炭、薪、砂糖などを首里をはじめ、各地に運びました。与那原から首里までは10キロもないくらいですが、登り坂の連続で標高差はかなりあります。馬にとってはハードな道のりだったでしょう。

日用雑貨の運搬や与那原の屋根瓦を運ぶのも大きな仕事の一つでした。馬車一台で一台600キロの荷物が積めたそうです。600キロといえば米俵10俵分ですから、相当な量ですね。「沖縄の風景」さんのブログを読んだら、同じ馬でも宮古の馬は力があってタフなので人気があったそうです。しかし、内地から来た馬は夏バテで役に立たなかったとありました。私は内地出身ですから分かる気がします。沖縄の夏は半端ないです。しかし、戦後はトラックなどに輸送の主役を奪われましたので、馬車スンチャーは次第に衰退していきました。

なお、軽便与那原駅舎資料館の入口に鎮座している等身大のオジイは、馬車スンチャーの三郎さんと呼ばれ町民に愛されているとか。与那原に観光にお出での際は、駅舎資料館にも足をお運びください。三郎さんの姿は ⇒ コチラから。実在した馬車スンチャーの大木さんという方がモデルだそうです。

下の写真は、与那原交差点にある与那原警察署の外壁面に描かれた「馬車スンチャー」の絵です。戦前の山原船から与那原町の港に陸揚げされた物資を運ぶ荷馬車や客馬車がひしめきあっていた時代にあった「与那原馬車スンチャー」を描いています。



馬車スンチャーの壁画
与那原警察署のブロックに描かれた馬車スンチャー


地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 馬車スンチャー壁画

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