ハイホーの沖縄散歩=那覇地区=
歴史的な遺構が見つかりました。那覇市文化財課が首里平良町の平良橋周辺で行っている埋蔵文化財発掘調査で、琉球王朝時代の1597年に整備された「太平橋」(=平良橋)の擁壁とみられる遺構です。もともとの橋は沖縄戦で日本軍によって破壊されており、出土したのは橋に付随した道路部分の石積みです。石積みは、石を多角形に加工し、互いにかみ合うように積む「相方積み」で積まれていました。王朝時代の石積み技術の高さをあらためてうかがい知ることができます。
「太平橋」は第二尚氏王統七代の尚寧(しょうねい)王が首里から浦添グスクに至る交通の要衝を整備した際、板橋だった平良橋を石橋に改修した橋です。平成24年、安謝川改修前の市の試掘で遺構が見つかり、平成27年6月末から川を挟んだ南北2ヶ所で調査が行われていました。石積み道路の遺構は、高さ約4メートル、幅約5メートルにわたって琉球石灰岩で造られており、市文化財課の担当者は「ここまできれいに残っているのは奇跡に近い」と話しています(琉球新報、沖縄タイムスなどより)。
1609年、薩摩が琉球を攻めたことがありました。当時の最新兵器だった火縄銃を武器に持っている薩摩軍と、弓矢が主流の琉球王府軍が、この橋をはさんで相対しました。薩摩軍の鉄砲が琉球軍の城間鎖子親雲上盛増(ぐすくまさぺーちんせいぞう)という武士に命中し、首を取られました。それを見た琉球軍は恐れをなして戦意を消失し、総崩れとなって一人残らず首里城に逃げ帰ったそうです(Wikipediaより)。おそらく、戦で首を刎ねると言う風習が琉球にはなかったのでしょう。
なお、この発掘のニュースを新聞で読んで、早速、現地に出かけましたが、ビニールシートがかかっており、一部しか見ることができませんでした。このため、発掘現場説明会に申し込み、写真を撮影してきました。発掘説明会のとき那覇市の文化財課から図面をいただきました。次の図面の○数字は、その下の写真の撮影場所に対応しています。説明会の内容も このページでご紹介しようと思いましたが、講師の声が聞こえてきたり、こなかったりで、正確には聞き取れませんでした。そのため、写真だけご紹介します。
↑ @ 川の北側の石積み、ここは布積み | ↑ A 川の北西の角の石積み、ここは相方積み |
↑ B 川の道路の東側、ここも相方積み、見た目も美しい | ↑ C 川の道路の東側 |
↑ D 川の道路の西側、上の2段は後世に積み増したもの | ↑ E 隣接する後世の家屋跡、中央の○は近代の井戸 |
◎石積みの技法(HP「中城城跡」より)
◎野面(のづら)積み「野面」とは、加工していない石の事。その名の通り、自然の岩や石をそのまま組み合わせて積み上げる。最も古い技法。 |
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◎布(ぬの)積み(別名、豆腐積み)直方体に加工した石を、一段ごとに高さを揃えてブロック状に積み上げる。上の写真@に見られる。大きな石を積むことで強固に仕上がっている。 |
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◎相方(あいかた)積み石を多角形に加工し、互いに噛み合うように積む技法。強度と耐久性に富む。上の写真A、B、Dに見られる。 |
下の写真は、太平橋と同じ1597年頃に造られたという浦添市の安波茶(あはちゃ)橋です。太平橋と同様、尚寧王の命で浦添グスクから首里までの道を整備したときに造られたと考えられています。沖縄戦で破壊されましたが、平成に入ってから復元されました(安波茶橋の説明板より)。同じ頃に作られたからといって、同じ形をしていたかどうかは不明ですが、もし、太平橋もアーチ式の石造りなら、こんな形の橋だったかもしれませんね。
安波茶(あはちゃ)橋について、詳しくは ⇒ コチラから。
地図をご覧になる方はコチラから ⇒平良交差点 交通量の多い交差点の近くにありますので駐車場がありません。平良交差点と儀保交差点の間に交番があります。その北に末吉公園の駐車場があります。遺構は平良バス停のすぐ東です。
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