国王頌徳碑(かたのはなの碑)


琉球王国時代の1543年に建立された石碑です。県道29号線龍譚通り「鳥堀1丁目」バス停近くに建っています。




現地の案内板には、次のとおり記されています(原文のまま)。(注)は、サイトの管理人が挿入。

「国王頌徳碑」は、琉球王国時代の1543年に建立された石碑である。
碑文の内容は、首里城から、古来より崇拝された弁ヶ嶽(べんがたけ) (後に久高島(くだかじま)・斎場御嶽(セーファウタキ)の遙拝所として整備される。那覇市内最高所(標高165m)への道を石畳道にし、周辺に松樹を植えるなどして、参道を整備した国王尚清(しょうせい)の徳を讃えたもので、表は平仮名文、裏は漢文で刻まれている。また、首里城から東に延びる丘陵「上の毛(ウィーヌモー)(注1)」の東端部を「かたのはな」といい、この付近に建立されたことから、別名「かたのはなの碑」ともいう。
石碑が建立された一帯は「碑文の毛(ヒムンヌモー)」)(後に「碑文の前(ヒムンヌメー)」)と呼ばれ、広場になっていたが、1935年(昭和10)に首里と那覇を結ぶ首里市営バス(注2)の発着場となった。
1945年(昭和20)の沖縄戦で石碑は破壊されたが、碑の一部が沖縄県立博物館に残されている。
本碑は、碑の一部や建立年の近い石碑を参考にして、石碑建立地に近接する現在地に新たに復元したものである。


近世の首里王府の編纂した歴史書である『中山世鑑』『中山世譜』『球陽』では、琉球の最初の王統を舜天王統とし、初代の王を舜天としています。しかし、舜天の実在を示す証拠は発見されておらず、舜天王は伝説の域をでないと解されてきました。ところが、この碑の表文に「大りうきう国中山王尚清ハそんとんよりこのかた二十一代の王の御くらひをつきめしよわちへ…」裏面の漢文には「大琉球国中山王尚清自従、舜天降来二十一代之王孫…」とありますので、尚清代には、琉球の初代の王は舜天という認識があったのでしょう。なお、表文の「そんとん」とは「尊敦」のことで、舜天の 神号です。しかし、舜天の父は 源為朝で、為朝が伊豆から逃れて沖縄に来て、土地の女性との間に出来た子どもが舜天だったという 架空の話からスタートしていることから分かるように、舜天は、やはり伝説の王だったのでしょう。為朝伝説について、詳しくは ⇒ コチラから
なお、歴史書は、時の政権の正統性を裏付けるための創作が随所に見られます。『中山世鑑』の著者、羽地朝秀(はねじちょうしゅう)は、「日琉同祖論」を唱えたことで知られている人物ですが、その羽地こそが、舜天と為朝伝説を融合させた張本人と思われます。「日琉同祖」をいうために、薩摩の島津氏が「源氏」を称していることからも、それにおもねた羽地の創作と考えられます(一部「沖縄県の歴史」より)。

また、碑文の中で「大りうきう」「大琉球」 と、国名に「大」がついています。こんなに小さな国に「大」を付けるのは、自らを尊大に見せる、偉大に見せるためという意味があったのかもしれません。後の「大日本帝国」の例もあります。「大漢」「大唐」「大宋」「大元」「大明」「大清」のように中国なら広大な面積を持っていましたので、「大」がついても違和感はありませんね。現在、国名に「大」がついているのは、思いつくのは「Great Britain」と「大韓民国」ぐらいでしょうか。

(注1)上の毛…上の方にある原っぱという意味。首里城正殿の東にあり、鳥堀から城に向かう道の途中にある。高台からは首里の街並みやはるか海も見え、見晴らしがよい。
(注2)首里市営バス…首里市営バスは昭和10年1月23日に創立。那覇〜首里間を往復した。昭和26年に米軍の指示で民営化し、昭和49年に那覇交通に統合された(Wikipedia)。



地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 国王頌徳碑 鳥堀交差点から100メートルほど西にあります。鳥堀1丁目のバス停近くです。通りの反対側にAコープがあります。


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