源為朝上陸の碑




源平合戦の勇士、弓の名手として知られた鎮西八郎こと源為朝が沖縄に来たという にわかに信じられない伝説があり、今帰仁村運天(うんてん)港には源為朝上陸の碑が立っています。保元(ほうげん)の乱(保元の乱とは、保元元年(1156)、後白河天皇と崇徳上皇が皇位の継承をめぐり対立。それに、藤原氏、源氏、平氏も親子、兄弟が両陣営に別れて争った戦い)に敗れて伊豆大島に流された源為朝が、追討を逃れるため奄美諸島を渡り歩く途中に暴風にあい、今帰仁(なきじん)の港にたどり着いたというもので、嵐の中で運を天に任せてたどり着いたので、港の名を "運天港" と命名したといわれています(グスク探訪ガイド・名嘉正八郎著などより)。為朝はそこから南部に移り住み、大里按司(おおざとあじ)の妹と結ばれて男児をもうけます。その子は、尊敦(そんとん)と名乗り15歳で浦添按司となり、1187年、22歳で中山王となりました。琉球の歴史書「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」に琉球最初の国王として書かれました。これがこれが舜天王です。つまり、琉球の王となった舜天は為朝の子であり、琉球の歴史は舜天から始まったことになります。この話がのちに曲亭馬琴の代表作『椿説弓張月』を産みました。この話が真実であるとすれば、舜天と鎌倉幕府を起こした源頼朝は従兄弟同士ということになります。

源為朝公上陸の碑は、大正11年(1922)、国頭郡教育部会によって建てられました。題字は、ロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎です。では、何のためにこの碑を建てたのでしょう?。国頭郡教育部会は、戦前の沖縄で忠君愛国の思想を沖縄の人々に浸透させる目的で、社会教育活動を行っていました。沖縄県民は皇民であるという日琉同祖論の権威付けのために、当時の英雄だった東郷平八郎に題字を依頼したと思われます。沖縄が日本の一部であるという主張は、戦後の日本への復帰運動へと発展していきますが、近代沖縄にとって、現実的な選択肢は これ以外にありませんでした。琉球独立論はありましたが、現実的ではなかったのです。支配される国だった沖縄の側から、積極的に祖国への復帰をめざして、為朝上陸碑は建てられたのでした。この碑の石材は、明治7年(1874)に国頭沖で座礁したイギリス船のバラスト(船底の重り)が使われているとされ、歴史を物語る石材でもあります(HP「ガイドと歩く今帰仁城跡」より。

その後、為朝は妻子を連れて日本に帰ろうとしましたが、嵐に襲われて出港できませんでした。いつまでも海が荒れるのは、船に女が乗っているので竜神が怒っているからと、止む無く妻と乳飲み子を琉球に残し、一人で旅立って行きました。そして、二度と琉球には帰って来なかったというのが、為朝伝説のあらすじです。この時、為朝が船を出したのが、浦添にある牧港だそうです。牧港の名前の由来は、為朝の妻と子が、為朝の帰還を待ちわびた港、「待ち港」が訛ったという説があります。運天にしろ、為朝の子という舜天にしろ、牧港にしろ、あまりにもよくできたお話なので、実話かと思ってしまいますね。しかし、義経のジンギスカン伝説よりは、ホントらしい話ですね。下の写真はワルミ大橋から運天・古宇利大橋を望む。






本島中部の浦添市にある「為朝岩」については⇒コチラから
地図をご覧になる方はコチラから ⇒運天港


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