尚徳(しょうとく)王陵墓跡(那覇市)


尚徳王陵墓


墓があるのに墓跡とあるのは、尚徳王の末路には諸説あり、ここが本当の墓だったのか、はっきりしていないからです。第一尚氏(注1)滅亡後、先代の六人の王の墓は、第二尚氏の攻撃を避けるため、天山稜(てぃんさんりょう:第一尚氏歴代王の墓)から各地に分散しており、また、一旦、移転してからさらに移動されていることも多く、尚徳王の場合も、のちに末裔たちが建てたものと思われます。はじめからここに埋葬されたのか、明らかではありません。

尚徳(しょうとく)は、第七代国王で、第一尚氏王統最後の王です。在位1461-69。尚泰久王の第三王子として、1441年に生まれました。父の死去後、妾腹でありながら長兄・金橋王子を退けて即位しました。長兄の金橋王子の母は王妃でしたが、謀反の嫌疑をかけられた護佐丸(ごさまる:注2)の娘であったことから、三男の尚徳が即位したのではないかといわれています。即位の翌年には、明(みん)から冊封(注3)を受けました。



墓跡碑   琉球国は、15世紀、島内が三つの国に分かれて争っていたのを尚巴志(注4)が統一しました。しかし、その後、まだ島内で護佐丸・阿麻和利(あまわり:注5)の乱があったり、たった64年の間に国王が7人も入れ変わるという肉親による後継争いがあるなど、政情不安があり、財政も逼迫するなど政権は不安定でした。

尚徳王は、1466年、首里の天界寺(てんかいじ)に大宝殿を建設。明(みん)にたびたび進貢し,諸外国との通商をすすめました。同年、尚徳王は29歳のとき、自ら2千の兵を率い喜界島(きかいじま)討伐を強行し凱旋する途中、愛人クンチャサヌル(注6)に会うため久高島(くだかじま)に立ち寄りましたが、寵愛のあまりに別れを惜しんで島に逗留してしまいました。しかし、その隙に首里城でクーデターが起こり、急ぎ首里に戻る途中、妻子の虐殺と金丸(かなまる:第二尚氏の初代王、のちに尚円を名乗った)の即位を知り、海に身を投げてしまったという説のほか、生き永らえて本島で身を隠していたとか、久高島で惨殺された。宮古島に逃れた。喜界島に戻ったなどの諸説があります。 尚徳の死によって、第一尚氏王統は絶えました。


首里王府の正史では、尚徳王は「29歳にて薨(こう)じ給ひける」(『中山世鑑』:注7)、「王、暴虐日に甚しく、金丸諌むれど聴かず」(『球陽』:注8)と、悪逆な国王であったかのように記されていますが、しかしこれは、第二尚氏の世になってから金丸王のクーデターを正当化するために書かれたと思われますので、史実かどうか疑問があります。

琉球石灰岩で建立された碑のそばに「第七代尚徳王陵墓跡」の石碑があります。しかし、ネット情報では根元からポッキリと折れているとありました。平成10年より前の写真を見ると、石造りの立派な碑が建っています。いつ、なぜ折れたのかわかりません。台風で折れたという人もいますが、石造りの碑がそう簡単に風で折れるとは思えません。人為的に折られたのかも?という疑念もあります。現在は上の写真のとおり、復元されています。

陵墓跡の碑の前の香炉には、御願(ウガン)に来た人たちが線香を燃やしてお参りした跡がうかがえました。

(注1)琉球王統…琉球の王は「尚氏(しょうし)」を名乗った。最初に琉球を統一した尚巴志(しょうはし)の系統を第一尚氏といい、家臣であった金丸が第一尚氏をクーデターで滅ぼしたあとも、代々「尚」という名前を名乗ったので第二尚氏という。第一尚氏と第二尚氏に姻戚関係はない。なお、第一尚氏墓稜だった天山稜について、詳しくは ⇒ コチラから

(注2)護佐丸…15世紀の琉球王国(中山)の按司だったが、その後、中城城の按司となり、 阿麻和利と覇権を争ったという説もある。護佐丸の没後、子孫は琉球王朝の屈指の名門の一つとして栄えた。現在、門中(注9)は、5万人とも10万人ともいわれている。

(注3)柵封(さくほう、さっぷう)…中国皇帝が周辺国と君臣関係を結ぶこと。この場合は、琉球国王として中国の皇帝から承認を受けるという意味。

(注4)尚巴志(しょうはし)…琉球を統一した王。父であった尚思紹(しょうししょう)を初代王とし、自身は第二代王となった。

(注5)阿麻和利…15世紀の勝連城の按司だった。護佐丸・阿麻和利の乱で勝利したが、その後、尚泰久によって滅ぼされる。護佐丸が忠臣で、阿麻和利が悪人とされているが、 不可解なことが多い。

(注6)クンチャサヌル…久高島の神女。尚徳王は、政(まつり)ごとの宣託を仰ぎに しばし久高島に渡るうちに、クンチャサヌルの美貌に魅了され、恋に落ちてしまった。尚徳の死を知ると自家のガジュマルの枝で首を吊って自害したといわれている。

(注7)中山世鑑(ちゅうざんせいかん)…薩摩支配下において書かれた琉球王国の初めての正史である。羽地朝秀(はねじちょうしゅう)が王命により編纂。1650年成立。内容は、多分に脚色されており、正確な歴史書とは言い難い。

(注8)球陽(きゅうよう)…1743年から1745年にかけて琉球王国の正史として編纂された歴史書。書名の『球陽』は琉球の美称であり、日本国内では長崎を「崎陽」、岐阜を「岐陽」あるいは「華陽」と称したのと同類。鄭秉哲(ていへいてつ)が王府の命でまとめた正史。

(注9)門中(もんちゅう・むんちゅう)…詳しくは ⇒ コチラから




地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 尚徳王陵墓跡 駐車場はありません。



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