みなと村(そん)役場跡

みなと村説明板


沖縄県みなと村をご存じですか?。戦後生まれの方でご存じの方は、相当に記憶力が高く歴史に詳しい方でしょう。

沖縄戦後の1947年5月1日のことです。当時の沖縄民政府が那覇市内に「みなと村」を設置しました。その名残りが「みなと村役場跡」として残されています。しかし、昭和25年には那覇市に合併しましたので、わずか3年しか存在しませんでした。

奥武山(おうのやま)公園内の沖縄セルラースタジアム前にある世持神社(よもちじんじゃ:注1)の大鳥居に向かって左側の一角に石碑が建っています。そこに記されている内容は、次のとおりです。

沖縄戦後に、特別に設置された行政区みなと村の役場跡。
1945年(昭和20)の沖縄戦の後、米軍専用となった那覇港における米軍需物資や民間の食料品等の荷役作業は、当初日本軍捕虜(ほりょ)によって行われたが、捕虜の解放、本土への引揚げにより、沖縄県民約2千人の那覇港湾作業隊(なはこうわんさぎょうたい)が組織された。
この作業隊及びその家族を含めて約1万人の生活・労務管理等を円滑に行うため、1947年(昭和22)5月1日に、当時の沖縄民政府がみなと村を設置した。初代村長には港湾作業隊の指揮を執っていた国場幸太郎(こくばこうたろう:注2)が就任した。役場庁舎には奥武山の世持神社の建物が使用された。
村の行政区域は、奥武山を中心に戦前の那覇市山下町、真和志(まわし)村の楚辺(そべ)・松尾・壺川など約23万坪にも及んだ。また米軍のテントカバーで作られた規格住宅が1世帯に1棟ずつ割り当てられ、奥武山などの区域内には規格住宅が建ち並んだ。
1950年(昭和25)になると、港湾作業が民間業者の請負制になったため、村存続の意義がなくなり、同年8月1日に那覇市に合併し、みなと村は解消された。
設置2002年3月 那覇市市民文化部歴史資料室

(注1)世持神社…詳しくは ⇒ コチラから

(注2)国場幸太郎(故人)…沖縄県出身の昭和の実業家。国場組(建築土木業)の創業者。沖縄財界四天王の一人といわれる。弟の幸昌(こうしょう:故人)は元衆院議員、孫の幸之助は衆院議員。瀬長亀次郎の側近で伊佐浜土地闘争を率いた国場幸太郎 (1927-2008) とは同姓同名の別人(注2はWikpediaより)。




みなと村 みなと村

公園内の県立武道場の東の通路に大きな石の鳥居がある。説明碑は鳥居の左側にある。


説明碑の建っている場所の地図をご覧になる方は、コチラから ⇒みなと村役場跡 奥武山公園の中ですので公園の駐車場が使えます。ゆいレール利用のときは、奥武山公園駅か壷川駅が便利です。

 

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