茶湯崎橋・指帰橋(ちゃなざちばし・さしけーしばし)


左から真嘉比川、右から安里川が合流する(指帰橋から)


橋の名前は、地名から付けられることが多いようです。安里にあれば安里橋、安謝にあるのは安謝橋。金城にあれば金城橋と名がつきます。ところが、現在は無くなってしまった地名と地名とは関係のない名前の橋が続けてあるところを見つけました。それが、茶湯崎橋(ちゃなざちばし)と指帰橋(さしけーしばし)です。それは、那覇市松川にあります。早速、行ってみました。首里城から龍譚通りを国際通り方向に向かい、坂下通りをドンドン下ります。右手に日航グランドキャッスルの高層ホテルを見ながら首里観音堂の裏側を通り、外装のハゲかかった沖縄都ホテルを左に見て松川交差点の変則四差路をエンゼルハイム首里坂下の建物方向に向かいます。すると200メートルほど先に、レンガ色の階段式のライオンズマンションがあります。その前に那覇市歴史博物館の史跡・旧跡案内の「茶湯崎橋」の碑が建っています。

その碑文の内容は、次のとおりです(原文のまま)。
「茶湯崎橋(ちゃなざしばし)は、旧茶湯崎村(現 那覇市松川)を流れる真嘉比川に架けられ、王国時代から昭和期にかけて首里・那覇を結ぶ重要な橋であった。橋の創建年は不明だが、1674年、木橋から石橋に架け替えられている。
かつてこの辺りまで船が遡ってきたといわれ、18世紀の政治家・蔡温(さいおん)は、その著作「独物語(ひとりものがたり)」で、「茶湯崎に湊(みなと) を造れば、交通の便が良くなり、さらに商船がやってきてこの地で交易ができる。そうなれば首里に住む人々の生活も良くなる」(原漢文)と述べている。
また、この付近は妖精伝承があったため、1519年、日本僧の日秀上人(にっしゅうしょうにん)(注1)が橋の北側に碑を建立した。この碑は梵字が刻まれていたため、「文字も故事も判らない松川の碑文(ムジンクジンワカランマチガーヌヒブン(注2))」といわれ明治期まで残っていたが、道路整備のため撤去され現存しない。とある。
また、沖縄戦の後、道路整備に伴い茶湯崎橋の道は旧道となり、橋の北側を走っていた電車軌道跡(1933年廃止)が新たな県道となった。さらに川筋も変えられたため、橋の位置も移動している。
なお、王国時代、茶湯崎村付近にあった「指帰橋」という橋も架けられていたが、その架設場所は不明。現在の「指帰橋」は名称を受け継いだものである。」
以上、案内板の説明より。つまり、もともとの茶湯崎橋は、今の碑や現在の茶湯崎橋があるところとは、場所が異なっていると書かれています。

(注1)日秀上人…室町時代、紀州の真言宗知積院の僧で、和歌山県の那智から補陀落渡海(注3)で、琉球の金武(きん)フナヤ(富花港)に漂着しました。村人に稲作の方法を教えたり、住民が洞窟に住む大蛇に困っていたのを退治して、金武観音堂を建てたことで、その名は、首里の尚真王にも知られて、尚真王の仏教の師となり、護国寺を建てるなど、仏教を広めたとも伝えられています(Wikipediaなどより)。また、上人は首里から浦添に通ずる道中の丘に、妖怪が出没し人々を悩ましていることを聞いて金剛経文を小石に写して土の中に埋め、「金剛嶺」を刻んだ石碑をその上に建てました。それが「経塚の碑」で、浦添市に現存しています。経塚の碑について詳しくお知りになりたい方は ⇒ コチラから
(注2)上記のように魔除けが梵字で書かれていたため、誰も読めませんでした。このことから訳のわからないことを、「松川の碑文」といって揶揄したそうです。知り合いの方に聞いたら、「松川の碑文」という言葉は、何が書いてあるか分からないという意味で、今でも通用する言葉だそうです。
(注3)補陀落渡海(ほだらくとかい)…日本の中世において行われた捨身行の形態。渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が乗り込み、そのまま沖に出るというものです。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送ったそうです。場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者の生還を阻止しました。有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると、868年から1722年の間に20回実施されたといいます。このほか、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも行われたとの記録があります(Wikipediaより)。

HP「琉球沖縄に伝わる民話」によれば、
「むかし、橋を茶湯崎邑(ちゃなざきむら)の西方(せいほう)に設(もう)け、首里、那覇往来(おうらい)の大路(おうぢ)といたしました。しかし、しばしば虫食い、朽(く)ち腐(くさ)れ、その度(たび)、修理をくりかえすので、近世になって国王が近臣(きんしん)に御命令になって、石橋に造りかえられました。
その当時は、海潮(かいちょう)も、この辺(あたり)まで出入し、その上、広くて深かったので、北山(ほくざん)の諸船(しょせん)も、よくここにきて、碇泊(ていはく)しました。海水がこの橋のところまで満ちてくると、川の水のため押しかえされましたので、その橋を名づけて「指帰橋」といいました。」とあります(『球陽外巻・遺老説伝』より、第20話)。

指帰橋の上に立つと、上手で真嘉比川と安里川が合流しています。川幅は狭く、水量も、さほど多くはありませんので、こんなところまで船が往来していたとは、とても思えません。風雅な名前に反して川面にはゴミが浮んでいました。日一日(いちにち)と陽が長くなるのが実感できる昨日今日、水の流れが往きつ戻りつしたのを見て「指帰(さしかえし)橋」と名づけた時代には、のどかな景色が広がっていたのでしょう。

現在の茶湯崎橋
茶湯崎橋の名が見える 茶湯崎の碑は、1本北の通りのライオンズマンション松川前に
ライオンズマンション前の茶湯崎橋の碑 茶湯崎橋付近から首里方面を望む。左手前が茶湯崎橋(石門)
左奥に「官松嶺」、右奥に「万歳嶺」(明治後期)撮影のもの
上の左の碑にある地図を拡大したもの。赤色の線路マークは、昭和8年に廃止された沖縄電車軌道の跡
現在の指帰橋は、現茶湯崎橋の南あるが、もともとあった場所は不明だそうです 風情のある橋の名です


国際通りから来るときは、大道大通りの松川西の信号の少し手前に南に折れる道があります。すぐ左折すれば茶湯崎橋の碑へ。碑の手前で右折すれば現茶湯崎橋へ。指帰橋へは一旦、大道大通りまで戻って南へ進んでください。


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