碁打御嶽(ごうちうたき)






「碁打御嶽」なんて、変わった名前の御嶽ですね。

「那覇まちま〜い(注1)」のコースにありましたので、自分で探して行ってきました。ここへは安里八幡宮経由で行ったので場所が分からず、また、住宅街にあるのですが、誰とも出会いませんでしたので、ずい分、探しました。県道251号線から入れば、簡単に探せたでしょう。

この御嶽は「その昔、金丸(後の尚円王 (注2))と安里大親(注3)の二人が、碁を打ちながらクーデター計画(注4)の打合せをした」と言い伝えられている場所です。

私の撮影した写真とネット上の写真とでは、石の大きさが違いますので、改修されたのか、誰かが石を持ち去ったのかは分かりません。



(注1)那覇まちま〜い…歴史や文化に詳しいガイドが那覇の市内を案内するツアー。季節ごとに20〜30のコースがあります。
(注2)金丸(かなまる)…第二尚氏の初代王、第二尚氏の初代の王。1415年、伊是名島に生まれ、27歳のとき、当時越来王子であった尚泰久に仕え、その後、尚思達、尚金福、尚徳と、都合、四人の王に仕えました。第一尚氏滅亡後、即位して尚円(しょうえん)を名乗りました。
(注3)安里大親(あさと うふや)…生没年未詳 唐名毛興文・安里清信(『球陽』)なお、円王即位後、功を認められ安里村(現・那覇市安里)の地頭職に任じられました(Wikipedia)。
(注4)クーデター計画…第一尚氏の第7代の尚徳王と臣下の金丸とはそりが合わず、尚徳の喜界島遠征時を狙ってクーデターを起こしました。金丸と安里大親は、ここ碁打御嶽や浮縄の御嶽などでクーデターの謀議したとされます。その内容は、重臣たちを集めた議場で、安里大親が「金丸こそ、王にふさわしい」と大演説し、金丸を次期王に推挙するというもので、重臣たちはこの提案に賛同し、これによって、金丸が尚円と名を改め国王に即位しました。正史の記述では、金丸が即位した経緯について、尚徳の死後、重臣たちから推挙されて王になったと記されていますが、実際はクーデターでした。その証拠に尚徳王の妃や王子たちはじめ第一尚氏王統の一族は、ほとんどが金丸によって殺害されました。詳しくは、こちらに記しております。⇒ 天山陵(てぃんさんりょう)

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 碁打御嶽 安里1丁目交差点から県道251号線を北へ150メートルほど行った東側にあります。歩道橋の横にある短い坂道の途中、階段の右側にブロック塀で囲われた御嶽があります。入口に、上の写真のような名前の入った石板があります。駐車場はありません。ゆいレールの最寄り駅は「牧志」です。


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