儀保殿内跡(ジーブドゥンチアト)




尚真王の代といいますから第二尚氏の第3代国王の時代です。尚真王の在位は、1477年〜1527年と、50年間も王位にありました。その頃、琉球王国の神女組織が整備され、最高女神官「聞得大君(きこうえおおきみ)」の下に3人の高級女神官が置かれ、琉球全域の呪女(ノロ)を3区域に分けて管轄させました。儀保殿内は、その中の一人、高級女神官の一人「儀保大阿母志良礼」の神殿及び住居跡です。マンションの玄関先に碑が立っています。往時の面影を残すものは何もありません。

現地の案内板には、次のとおり記されています(原文のまま)。

琉球王国時代の高級女神官の一人「儀保大阿母志良礼(ジーブウフアンシタリ)」の神殿及び住居跡。
 尚真(しょうしん)王代(1477 〜 1526年)、琉球王国の神女組織が整備され、最高女神官「聞得大君(きこえおおきみ)」の下に首里(シュイ)・真壁(マカベ)・儀保(ジーブ)の3人の「大阿母志良(礼ウフアムシラレ)」が置かれた。3人の「大阿母志良礼」は首里の士(サムレー)の女むすめから選ばれ、聞得大君を補佐して国王の長寿・国の繁栄・五穀豊穣(ごこくほうじょう)・航海安全を祈願するほか、琉球国中の御嶽(ウタキ)・神女を3分割して所管させた。「儀保大阿母志良礼」は、首里の西之平(ニシヌヒラ)等(現汀良(てら)・儀保(ぎぼ)・赤平(あかひら)・久場川(くばがわ)町地域)をはじめ、浦添(うらそえ)・西原間切(にしはらまぎり)や慶良間(けらま)・粟国(あぐに)・渡名喜(となき)島などの12間切3島の御嶽や神女(しんじょ)(ノロ)を管轄した。
 1879年(明治12)の沖縄県設置後、首里・真壁・儀保の3つの殿内の神殿は天界寺(ティンケージ)跡の一角に移され、1つの建物にまとめられて「三殿内(ミトゥンチ)」と呼ばれた。儀保殿内は大正初期には敷地・建物ともに払い下げられ、民有地となった。

案内板は、「ライオンズマンション守礼」の玄関先に置かれています。

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 儀保殿内跡
ゆいレール儀保駅から南東に600メートルほどの所です。最初にライオンズマンション汀良(てら)があり、さらに150メートルほど行くとライオンズマンション守礼があります。案内板はシーサーの前にあります。そのまま進むと首里中学校があり、その校門の前に聞得大君御殿跡(聞得大君御殿跡は ⇒ コチラから)の碑があります。

 

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