聞得大君御殿跡(チフィジンウドゥンアト)




聞得大君が祭祀をつかさどるときに使用した「かんざし」(模造復元)



「聞得大君」とは、百科事典マイペディアによれば、沖縄にあった「おなり神(注1)」の最高位。王府により王の姉妹または王女の中から任命されました。祝女(注2)などの巫女(注3)を統率し、沖縄における祭祀の一切を統括するもので、初めは国王と並んで、王妃よりも上位におかれたこともありました。「キコエ」は有名なという意味で、「君」は女性神官の称です。明治12年、廃藩置県で琉球王府は消滅しましたので、公的意義は失いましたが、私的には昭和19年まで18代にわたって 続いたそうです。方言ではチフィジンと発音しますが、「きこえおお み」または「きこえおお み」と読みます。 ここは、その聞得大君の屋敷があった場所です。現在は中学校の敷地になっていますので、往時の面影は全くありません。2,000坪のお屋敷だったそうですので、畳にすると4,000枚分。テニスコート25面分の広さです。

廃藩置県後、聞得大君御殿は龍潭の近くにあった中城御殿(なかぐすくうどぅん)に移され、敷地・建物は明治中期に民間に払い下げられ個人の所有となりましたが、沖縄戦後は、首里中学校敷地の一部になり、現在に至っています。

現地の案内碑には、次のとおり記されています(原文のまま)。

琉球王国時代の最高女神官「聞得大君加那志(チフィジンガナシ)」の神殿及び住居跡。
尚真(しょうしん)王代(1477〜1526年)、琉球王国の神女組織が整備され、最高位の聞得大君(きこえおおきみ)は国王を守護する「姉妹神」(オナリ神)として、国王の長寿・国の繁栄・五穀豊穣(ごこくほうじょう)・航海安全を祈願した。初代聞得大君は尚真王の姉妹月清(げつせい)であったと伝えられている。以来、王女・王母がその職につき、1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)に至るまで15代を数えた。
聞得大君の就任の儀式を「御新下り(ウァーラウリ)」といい、首里城を出発して与那原(よなばる)・佐敷(さしき)を経由し、知念間切(ちねんまぎり)にある聖地「斎場御嶽(セーファウタキ)」に到り、久高(くだか)島遙拝などの神事を行った。
王国時代に作られた「首里古地図(しゅりこちず)」(18世紀初頭)によれば、聞得大君御殿の敷地は汀志良次(ティシラジ)(現汀良(てら)町)・大中(ウフチュン)村(現大中(おおなか)町)で確認できるが、最後はこの汀良の地に定められた。当時石垣に囲まれた建物の敷地面積は約2,000坪であった。沖縄県設置後、御殿の神殿は中城御殿(ナカグスクウドゥン)(旧沖縄県立博物館敷地)に移され、敷地・建物は明治中期以降に払い下げられ、個人の畑地となった。1929年(昭和4)に沖縄県立師範(しはん)学校がその畑地を寄宿舎用地として購入し、1945年(昭和20)の沖縄戦の後には、首里中学校敷地の一部(グラウンド一帯)となった。

《ご参考》聞得大君御殿雲流黄金簪(きこえおおきみ うどぅん うんりゅう おうごんかんざし)…沖縄県立博物館・美術館の園原謙氏は、髪に差す「茎」に吉祥の意味がある「魚々子(ななこ)」と呼ばれる小さな点の唐草模様があるが、整然としていない。技術はないはずはなく、今とは異なる美意識があったのだろう、という。上の写真の解説をご参照。琉球新報からcopy。

(注1)おなり神…妹(をなり/おなり/うない)が兄(えけり)を霊的に守護すると考え、妹の霊力を信仰する琉球の信仰。
(注2)祝女(のろ)…地域の祭祀を取りしきり、御嶽を管理する。琉球王国による宗教支配の手段として、沖縄本島の信仰を元に整備されて王国各地に配置されました(以上、Wikipedia)。
(注3)巫女(みこ)…神に仕える女性のこと。神の言葉(神託)を得て他の者に伝えることが役割とされていました。琉球神道では神人(かみんちゅ)と呼ばれ、古来のシャーマン的な巫女の名残をとどめています。沖縄では、神に仕える巫女は祝女、口寄せ系の巫女はユタと呼ばれました(pixiv)。

地図をご覧になる方はコチラから ⇒聞得大君御殿跡 県道82号線の鳥堀交差点の東北に首里中学校があります。その正門前に案内碑が立っています。


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