尚宣威王(しょうせんいおう)の墓(沖縄市)



尚宣威王の墓


第二尚氏の王陵である首里の「玉陵(たまうどぅん)」に埋葬されていない国王が二人います。一人は、第七代尚寧王、そして、もう一人が、今回、墓を訪れた第二代尚宣威王です。

入り口の階段左に「尚宣威王の墓」の日本語、英語、中国語の案内標識が出ていました。墳墓は崖の中腹にあって、長い石段が続いています。傾いたままの「尚宣威王御墓」と刻まれた石碑も建っていました。

自然の洞窟を利用して造られた崖葬墓(がいそうぼ)のようです。墓が二基あって、どちらの墓に尚宣威王が葬られているのかと思いましたが、前に「尚宣威王御来歴」の石碑が建っていますので、やや高くなった右側の墓だろうと思われます。1957(昭和33)年に建立されたもので、次のとおり記されています。

『尚宣威王は第二尚氏尚円王の弟に生まれ、尚円王が薨去(1476年)するとき、世子尚真が幼少であったため、群臣の推挙により王位に就いた。尚宣威は5歳の時、父母に先立たれ、兄の金丸(註:後の尚円王)に育てられ、9歳の時、金丸に従って郷里の、伊平屋島、伊是名島を出て首里に移り住んだ。24歳で家来赤頭(げらへあくがみ・下級官吏)に昇進、34歳で黄冠(高等官)を授け、41歳で越来王子に任命された。この方もまた、御兄君、尚円王に劣らぬ徳行家であったが、在位6ヵ月で王位を尚円王の世子尚真(オギヤカモイ)に禅譲し、御自分は遠く越来間切りの山中に隠遁せられ、その年(1477年)の8月4日薨去された。御年48歳。』

なぜ、王でありながら玉陵に祀られなかったのかというと、第二尚氏王統の初代尚円王(金丸)の王妃であった宇喜也嘉(おぎやか)の策略で、玉陵への被葬者の資格について記した玉陵前の碑文に、埋葬されるのは、尚円王と宇喜也嘉の子孫のみと記され、宇喜也嘉の血筋ではない尚宣威王などは除かれておりました。退位後、墓のある越来(ごえく)に隠遁したのち、薨去したものとされています。

玉陵について詳しくは ⇒ コチラから



尚宣威王の墓 尚宣威王の墓


地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 尚宣威王の墓


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