ウガンヌカタ拝所 西森碑記(にしもりひき)







察度王(注1)の末裔の方たちが、先祖の徳を偲ぶために約300年前に造られたものです。宜野湾市のHPには、西森御嶽とあります。名称の西森卑記の「卑記」というは、初めて見る字面です。「へりくだって記す」というような意味があるのかもしれませんが、拝所であることは、毎違いないようです。

現地の案内板には、次のとおり記されています(原文のまま)。

宜野湾市指定史跡
 西森碑記(にしもりひき)
 平成3年8月1日 指定
この石碑は高さ120cm、幅30〜60cm、厚さ10〜22cmのニービヌフニ(微粒砂岩)でできている。 尚清王(在位1527年〜1555年)の第七子を初代とする向氏(しょうじ)伊江家の人々が、この石碑の前にある石門と森の川の石積み工事を行い、その完成を記念して雍正(ようせい)3年(中国年号・1725年)に建立したものである。
碑文には、「森の川で沐浴していた天女と奥間大親(おくまうふや)とが出会い、一男一女が生まれた。男の子は察度と名付けられ、後に中山王に就いた。私たちの元祖尚宗賢伊江王子朝義の母は、宜野湾間切謝名村(ぎのわんまぎりじゃなむら)の野国掟(のぐにうつち)の娘で、名を城「ぐすく」の大按司志良礼(うふあんししられ)といい、尚清王の夫人である。私達子孫は毎年5月、西森および森の川の泉を拝んでいるが、野国掟は奥間大親の末裔であるという伝説があるからであろう。
これらの事情により、私達は資金を寄せ、石工を集め、石を切り敷きつめ、泉を囲み、門を造った。また、西森の前にも長さ五丈四尺(約16.4m)の石垣を造り、門を開け出入りができるようにした。これらは先祖をしのび尊ぶためである。よって、ここに石碑を建立しその事を記す。
大清雍正(ようせい)3年9月吉日、向和憲垣花親方(うぇーかた)朝理・向良顕伊江按司(あじ)朝良、向和声西平親方朝叙」とある。
碑文の末尾の人物は三司官(さんしかん)の向和声を含め、いずれも伊江家の子孫たちである。
 平成4年3月 宜野湾市教育委員会

この文章を解釈すると、尚清王の夫人である城之大按司志良礼は、察度王の父・奥間大親の末裔ということで繋がりがあったと書かれています。察度王が亡くなったのが1395年、この石積みが完成したのが1725年。なんとその間に330年の歳月が流れています。不思議な縁ですね。なお、この文章に出てくる伊江家とは、その当時、首里王府内でも政治の実権を握っていた三司官(注2)を輩出するなど、有力な家柄でした。このように碑を建てることで自分たちの出自の正統性を示したのではないでしょうか。

この西森卑記に隣接して森の川(むいぬかー)があり、すぐ北には、「森川之塔」という戦没者慰霊碑が建立されています。もともと地域の方々にとって大切な泉や拝所のある土地ということで建てられたと思われます。 森の川は ⇒ コチラから





(注1)察度王(さっとおう)…1321年−1395年11月17日。生まれた家は極めて貧しかったが、当時強勢を誇っていた勝連按司の娘を娶ったことにより家運を起こした。30歳のとき、浦添の英祖王統(注3)の西威王の病死のあとを引き継ぎ察度王統を建てる。その時、英祖王の金蔵を空け、全て武器や農具に必要な鉄を購入するために使ったといわれている。母が天女伝説の天女だったと王府の正史にある。
(注2)三司官(さんしかん)…琉球王国の宰相職のことで、首里王府の実質的な行政の最高責任者である。
(注3)英祖王…沖縄で生まれた最初の王統で、5代西威王の病死で90年続いた英祖王統は終焉。

地図をご覧になる方はコチラから ⇒森川公園 公園の駐車場がります。

  ナビゲーションはトップページにあります。

   TOPページへ

Copyright © 2015 ハイホーの沖縄散歩 
logo