森の川(むいぬかー)





宜野湾市真志喜に森川公園があります。その公園の駐車場から歩いて数分のところにあるのが「森の川(むいぬかー)」です。日照りでも枯れることなく、今日に至るまで湧き水がとうとうと流れ落ちる「森の川」は、察度王(注1)の羽衣伝説(注2)の舞台です。HP「沖縄CLIP」には、その伝説が、次のとおり詳しく掲載されています。なお、「川(かー)」とは、沖縄では川という意味だけでなく泉、湧き水という意味があります。






むいぬかーで沐浴していた天女と出逢った貧しい農民の奥間大親(おくまうふや)。天女の羽衣を隠した奥間大親は、首尾よく天女を連れて帰り妻にしました。やがてふたりは一男一女をもうけます。ある日、弟をあやす娘の歌から羽衣のありかを知った天女は、羽衣を羽織ると子どもたちとの別れを惜しみつつ、空高く天に帰ってしまいました。

歳月が流れ、「謝名(じゃな)もい(or むい)」と名付けられた男の子は立派な若者に成長しました。「謝名もい」は、勝連按司(かつれんあじ)(注3)の娘の婿選びの場へ出掛けますが、按司からは貧しい農民が分不相応に、と鼻であしらわれます。ところが、「謝名もい」をひと目みた按司の娘は、「この人はただ者ではありません」と「謝名もい」との結婚を望み、二人は一緒になりました。

結婚した二人は大謝名(おおじゃな)にある「謝名もい」の家に帰りました。妻が目にしたのは、いまにも崩れ落ちそうなボロボロの家屋と、その周囲の畑にたくさんの黄金が転がっている様でした。妻から黄金の価値を知らされた「謝名もい」は、その黄金でたくさんの鉄を購入して農具を作り、周囲の農民に分け与えました。

この頃の琉球は、中山・北山・南山と3つの勢力圏に分裂していました。人々から信望を得た「謝名もい」は、その後、中山の王位につき察度王として、1350〜1395年の間、中山を治めたのでした。



森川公園の駐車場から奥に進むと「森の川」の道標 森の川の奥にある拝所


現地の案内板には、次のとおり記されています。
沖縄県名勝 宜野湾市 森の川
 1967(昭和42)年4月11日指定
 2000(平成12)年5月19日追加指定
名勝「森の川」は天女が降臨し沐浴したという「羽衣伝説」の舞台となったところです。「球陽」などの古文書によると、天女は奥間大観なるものと結婚し、一男一女を授かり、のちにその男子は中山王察度になったと記されています。
察度王は1372年に公式に初めて中国明と外交を開いた人物として知られています。
泉の東隣には村の聖地であるウガンヌカタがあり、そこに立つ石碑(西森碑記)に、泉は1725年に向氏伊江家の一族により、石積みで建造されたことと、そのいきさつが記されています。
この泉はまた真志喜の重要な泉で、子供が出生したときの産水、正月の若水をとる泉であり、地域の方々との結びつきが深く、大切な場所です。
 2003(平成17)年3月設置 沖縄県教育委員会 宜野湾市教育委員会

森の川から西森卑記の前を通り、さらに奥に進むと宜野湾の西海岸を見下ろす小高くなった広場があり、神酒森拝所がありました。西森卑記は ⇒コチラから



森の川の拝所 宜野湾の西海岸を見下ろす神酒森拝所


(注1)察度王(さっとおう)…1321年−1395年11月17日。生まれた家は極めて貧しかったが、当時強勢を誇っていた勝連按司の娘を娶ったことにより家運を起こした。30歳のとき、浦添の英祖王統(注4)の西威王の病死のあとを引き継ぎ察度王統を建てる。その時、英祖王の金蔵を空け、全て武器や農具に必要な鉄を購入するために使ったといわれている。母が天女伝説の天女だったと王府の正史にある。
(注2)羽衣伝説…日本各地に存在する伝説。最古の羽衣伝説とされるものは1200年前の滋賀県長浜市余呉湖を舞台としたもの。もっとも有名なのは静岡県清水市の三保の松原に伝わるもの。森の川に伝わるものは、「球陽」などの歴史書を編纂した人物が大和の伝説を巧みに取り入れ、王の正統性を高めるために利用したものでしょう。
(注3)按司(あじ)…按司とは13世紀頃から登場しはじめた有力な地域の首長、いくつかの村落の支配者。按司のなかでも、良港をもつ浦添(うらそえ)・読谷(よみたん)・中城(なかぐすく)・勝連(かつれん)・佐敷(さしき)・今帰仁(なきじん)などの按司がとくに勢力を強めていった。
(注4)英祖王…沖縄で生まれた最初の王統で、5代西威王の病死で90年続いた英祖王統は終焉。

地図をご覧になる方はコチラから ⇒森川公園 公園の駐車場があります。

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