浦添城の前の碑・馬ヌイ石



浦添城の前の碑

碑の説明文


この石碑は、尚寧(しょうねい)王時代の道路竣工記念碑です。1597年、第二尚氏7代王であった尚寧(注1)の時代に、首里から浦添城までの道路を整備しました。その際、竣工記念に造ったものです。ただし、往時の石碑は沖縄戦で破壊されてしまったため、1999年に復元されたものです。

表には琉球かな文字、裏は漢文で「尚寧王の命令で国民が力を合わせて、岩を刻み、道を造り石を敷き、川には虹のような橋をかけた」と記されていると解説にありました。石碑上部には、国王を表す太陽、優れた王だったことを示す鳳凰、琉球が豊かな土地だったことを意味する流雲がレリーフとして刻まれています。そして碑の上部には、16世紀の琉球王国の象徴文様であった日輪双鳳雲文(にちりんそうほううんもん)が飾られています。

また、上の写真の碑の説明文にもあるように、石碑前にある四角形の石は「馬ヌイ石」と呼ばれ、浦添城に来た際の馬の乗り降りのため踏み台として使われていたそうです。



石畳道 日輪双鳳雲文
整備された石畳道(部分) 琉球王国の象徴文様であった日輪双鳳雲文


(注1)尚寧…琉球王国第二尚氏王統第7代目の国王(在位1589年 - 1620年)。 尚寧在位中の1609年(万暦37年、慶長14年)に薩摩藩の島津氏に侵攻され降伏した。以後、琉球は日本(薩摩藩)と明の二ヶ国に両属することになる。尚寧王は薩摩藩によって江戸に連行され、その道中、駿府城において、徳川家康と面会。その後、征夷大将軍の徳川秀忠に謁見、2年半後、琉球に帰された。
第二尚氏の陵墓は首里にある玉陵(たまうどぅん)であるが、尚寧王は浦添ようどれ(注2)に葬られている。何故、歴代王の墓稜ではなく、浦添に祀られているのかについては諸説あるようだが、薩摩の侵攻を受けたことを恥じ入り王家の陵墓に入らなかったとか、自らが生まれた浦添の地に戻ったともいわれている。
(注2)浦添ようどれ…⇒ コチラから



地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 浦添城の前の碑・馬ヌイ石 浦添城址内にあります。無料の駐車場もあります。「浦添ようどれ」を見学し、城址内の遊歩道を1周すると駐車場に戻れます。


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