入(いり)め御拝領墓


入り目御拝領墓


「入(いり)め御拝領墓」とは、1822年ころに浦添御殿(うどぅん)から「入り」(費用)を拝領して、伊祖に築造された農民の墓です。被葬者は、呉勢(ごせい)という浦添按司(御殿)の乳母です。この墓は、現在は残っておりません。何故なら、当該地にはマンションが建っているからです。

この地区一帯は、近年まで真久原(まくばる)遺跡や古い岩陰墓などが隣接していたため、浦添市では埋蔵文化財の調整区域としていました。ここに平成6年、マンションが建設されることになり、造成の前に現地踏査を実施したところ、墓が1基と墓中の厨子甕が21基確認され、発見された厨子甕のひとつの銘書(みがち:氏名・家族関係・洗骨日などが書かれている)には「墓之儀者浦添御殿従入めご拝領」と記されていました。浦添市教育委員会は、これは御拝領墓という貴重な文化財であると判断し、「伊祖の入め御拝領墓」と名付けました。

この墓の周辺を見て回りましたが、隣接して古い墓が1基あったほかは、御拝領墓のあった往時の面影を残すものは全くありません。墓のあった場所は、マンション駐車場のスロープ辺りかと思われます。

琉球王国の時代では、御拝領墓というのは、珍しいものではないのかもしれませんが、墓の拝領というのは、私には初めて聞くものでしたので、19世紀初頭に造られたという この墓をHPに記録として残すことにしました。なお、現在のマンションの写真も撮りましたが、墓のあったことを知らずに住んでおられる方もあるでしょうから、掲載は見合わせました。



周辺図 平面図
左:発掘現場の遠景写真、右:発掘現場の平面図、ともに管理人が画像に加筆したもの


墓の形式は、一番上の写真のように小さな丘を掘りぬいて墓室とし、平葺の屋根を付けた平葺墓です。広さは、最長約10メートル、最短約5メートルの変形台形状で、墓庭の面積は約22平方メートルあり、墓室は約8.3平方メートルです。沖縄の歴史に詳しい玉木順彦氏によれば、「造営時の門は西向きだったが、墓の向いている方向にヒーザン(火山)があり、北側に門を移した。理由は、墓はヒーザンに向けて造るものではないからである」と言っておられます。ヒーザンとは、風水上、良くないとされる地形のことをいいますが、私は、風水のことは詳しくありませんので、どういう地形がよくないのかは分かりません。ただ、八重瀬町の東風平では、たびたび火事が起こるので風水師に見てもらうと、八重瀬岳に火山(ヒーザン)があるから八重瀬岳に向けて獅子を建てよと言われ、村人がそれに従うと、以来火事が起こらなかったという話を聞いたことがあります。その獅子が、八重瀬町の勢理(じり)グスクにある県内で最大最古の石彫大獅子です。

どうして浦添御殿から「入め」を拝領したかというと、被葬者である呉勢が浦添按司の乳母であったからです。沖縄博物館長の田名真之氏によれば、「浦添御殿とは、尚穆(しょうぼく)王の二子の尚図浦添王子朝央を始祖とする浦添按司家で、呉勢の仕えた按司とは二代目の浦添按司朝英のことだと考えられる」と言っておられます。尚穆は、第二尚氏第14代の国王です。

このページは、「伊祖の入め御拝領墓発掘調査報告書」−マンション建設に伴う近世墓の発掘調査−平成8年3月29日発行を参考に作成しました。墓の写真と平面図なども報告書からお借りしました。

(注) 浦添御殿(うらそえ うどぅん)…詳しくは ⇒ コチラから

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 伊祖の入め御拝領墓 


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