南城市大里にある大里公園の、標高約150メートルの丘陵台地に城跡があります。規模は3万平方メートル以上あり、この地区では最大規模のグスクでした。沖縄戦では城内に陣地が置かれて建築資材に城壁が転用されたうえ、米軍の攻撃もあり、大きな被害を受けました。戦後も石積みは復興資材に使われてしまいましたので、大半の遺跡は消失してしまいました。現在では一部に城壁跡を残すのみです。
築城年代は定かではありませんが、沖縄が北山、中山、南山の三つの勢力に分かれていたころ、当時の南山地域を支配した島添(しましー)大里按司(あじ)によって築城されました。推測では12世紀末以降に築城されたのではないかといわれています。
「島添」とは「島々を支配する」という意味を持ち、大里・佐敷(さしき)・知念・玉城(たまぐすく)地域を支配下に置き、当時大きな勢力を誇っていました。
その後、初代琉球王朝の国王となった尚巴志(しょうはし)によって攻め落とされ、ここを拠点として利用した尚巴志による、三山統一の足かがりとなりました。
城址の案内板には、次のとおり記されています。
大里城跡は、大里村字西原の北側、標高約150メートルの琉球石灰岩の丘陵台地に形成されている。北側から西側にかけて急峻な崖状をなし、崖を背に堅固な城壁と天然の地形を巧みに利用したグスクである。
この城跡は別称『島添大里グスク』とも呼ばれ、当主であった南山王・島添大里按司によって築城されたと『中山世鑑』の中に記されている。また尚巴志が最初に攻略した城でもあり、後に三山統一のきっかけともなり歴史的に重要なところである。
城の規模ひゃ東西に長く延び、北側の最奥部の本丸跡を取り巻く形で南側、東側に広く連郭式の城壁が連なり、石積みは野面積みが大半である。
1991年の村内遺跡分布調査の際試掘した結果、本丸跡から褐袖陶器、中国青磁、グスク土器、青銅製の飾り金具、丸玉、鉄釘などが出土し14世紀から16世紀の資料となっている。
平成4年1月 大里村
公園に入ると芝生の広場がありますが、この辺りは外郭で、奥に見える小高い部分が内郭です。 外郭には石塁やチチンガと呼ばれる井戸などがあります。内郭も崩れた石塁が散在していますが、この辺りに正殿が築かれていました。内郭の西端付近に島添大里按司の墓があります。2012年1月24日に国指定史跡となりました。
Google地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 大里グスク跡 ここに行くには、出発地点によって異なります。南城市のH Pに公園の住所が表記してありますのでナビを「沖縄県南城市大里字大里386-1」とセットしてください。詳しくは、Google地図をご参照ください。
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