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三津武嶽(ミチンダキ:与那原町)

三津武嶽


三津武嶽(みちんだき)は、運玉森(うんたまむい:注1)の中腹にある与那原町にある史跡のひとつです。琉球王国の神女、聞得大君(きこえおおきみ)が葬られたところといわれています。

聞得大君は、琉球発祥の地「久高(くだか)島」にお参り途中、嵐に遭遇し、薩摩まで流されてしまいます。 なんとか命は助かり戻ってくることが出来ましたが、妊娠していたため、王府には戻らずに、ここ与那原の御殿山(うどぅんやま)で一生過ごされたとのことです。

現在、三津武嶽は「子宝の神」としてお参りに来られる方も多いそうです。

なお、聞得大君とは、琉球国王における最高神女を指す役職名で、神職を司る女官(ノロ)で、今の世でいうならば、神社を統括する神社庁長官です。

聞得大君は与那原の御殿山に庵を結び、この地で男児を出生したといいます。その男児は生後まもなく亡くなったとも、成人して、後に首里王府に仕えた庭園師、城間親雲上(ぐすくまぺーちん)であるとも伝わっています。生まれたけども、どこの子か分らない子を首里に連れて行くわけにはいかなので、ノロたちが海に流したという説もあります。

ただ、城間親雲上が実績を残したのは19世紀の初頭であり、三津武嶽に祀られている聞得大君の生きた年代とは、大きなずれがありますので、庭園師になったという信憑性はありません。親雲上(ぺーちん)とは琉球王国の士族の称号の一つで、中級士族に相当します。

やがて聞得大君が亡くなると、「せめて大和の方角の海の見えるところに自身を葬って欲しい」という遺言により、運玉森の中腹あたりに葬られたそうです。それが、ここ「三津武嶽」 です。

案内碑には、次のとおり記されています。
御殿山の聞得大君が死後葬られたといわれる所で、運玉森の中腹にある。子宝の神として尊ばれ、与原部落では子供が生まれると、三歳までは旧9月9日のクガニの御願に赤ウブクを供えた。これらのことから、出産後、海に流された我子を思って、海の見える運玉森中腹に葬るよう遺言したのではないかと思われる。 以来、子供の守り神として、地域住民のみならず、他市町村からも子宝を望む人のお参りが絶えない。方切原ほおじりばるの三津武嶽登口にはタタン畑といって、三津武嶽を拝む場所があったとのことである。与那原町の史跡(1995)より

(注1)運玉森…与那原長と西原町の境界に立つなだらかな斜面をもつ山で、標高は158メートルあります。沖縄の方言で森は「むい」と呼ばれ、地形が高くなっている場所を表す言葉ですが、運玉森は、琉球王朝時代の伝説の義賊・運玉義留(うんたまぎるー)の隠れ場だったとして地元では知られています(「ハイホーの山日記」より)。

Google地図をご覧になる方はコチラから ⇒三津武嶽 駐車場はありません。私が行ったのは、与那原バイパスができる前で、そのときは、国道329号線沿いのファストフード店に車を置かせてもらい、歩きました(もちろん、帰りに食事をしてきました)。現在は、与那原バイパスが完成しましたので、三津武嶽と329号線とは道が分断されてしまいました。Google street view を見るとバイパス下を抜けるトンネルがあるようですが、その後、ここには行っておらず、自分の目で確かめておりません。


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