富盛(ともり)の石彫大獅子


石獅子
現存する石彫獅子では、最古、最大の富盛の大獅子


沖縄では魔除けの獅子のことをシーサーといいます。もともとは城門やお墓、集落の入口に置かれ、邪悪なものの侵入を防ぐために置かれました。

シーサーの素材には3種類あります。一つは琉球石灰岩を彫って造った石獅子です。二つ目は、民家の赤瓦屋根の上で見かける瓦と漆喰で造られた屋根獅子。そして、三つめは陶器の焼物です。今回ご紹介するのは石彫りの大獅子です。八重瀬町の富盛にありますが、富盛は「ふもり」ではなく「ともり」と読みます。

富盛の石獅子は、旧東風平町(こちんだちょう―現在は八重瀬町)の勢理(ジリ)グスクと呼ばれるグスクの中にあり、火除け(火返し)として1689年に設置されたもので、フィーザン(火山)といわれる八重瀬岳に向かっています。高さは141.2㎝、全長175.8㎝。一つの岩から掘られたもので、観光用に造られた那覇市壺屋の大(うふ)シーサーは、362㎝もありますので、それに比べれば かわいいですが、現存する石獅子のなかでは最も古く、最も大きい石獅子です。

この石獅子が造られたのは、1600年代当時、村中に不審火が多いことで困っていた富盛村の住民が、久米村の蔡応瑞-さいおうずい(大田親雲上-うふた ぺーちん)に風水を占ってもらったところ、火事が多いのは八重瀬岳が原因だということが分かりました。そこで、その対策として山に向かって獅子を建てると良いとのご宣託を受けて設置されたと伝えられています。

この石獅子は昭和49年に沖縄県文化財として指定されました。第二次世界大戦の爆撃にも耐え抜いた石獅子でしたが、表面をよく見ると下の写真のように銃痕が何か所も残っており、往時の戦争の激しさを物語っています。

バス停「第二富盛」のベンチに「石獅子レプリカ」が置かれています。現物の3分の2の大きさです。

なお、現地の案内碑には、次のとおり記されています。
『富盛の石彫大獅子』 県指定有形民俗文化財 昭和49年12月2日指定 高さ141.2cm 全長175.8cm
この獅子は火除け(火返し)として、尚貞王21年(1689年)に設置されたもので、フィーザン(火山)といわれる八重瀬嶽に向かって蹲踞している。この獅子が設置される以前は、富盛村では火災が多く、 村人はことごとく困ったということが、『球陽』尚貞21年の頃に詳しく記されている。
今日でも、旧暦10月1日(竃のお願)<防災儀礼>の行事にこの獅子を拝んでいる。 戦前までは、旧暦9月9日(タントゥイ棒)のときに、村の青年達はこのジリグスクに集まり棒踊りを演じた。
沖縄各地にある、村落祭祀上の目的でつくられた獅子の中でも、 最大最古のもので、民俗資料として貴重なものである。
昭和62年12月10日
沖縄県教育委員会 東風平町教育委員会

日本トランスオーシャン航空の機内誌(H18/1・2)に「シーサー何でもミニ事典」におもしろい記事がありましたので、ご紹介しましょう。
シーサーの生まれはどこ?
原型は獅子だからライオンなのだが、架空の生き物とされている。古代オリエントやインドが発祥の地で、シルクロードを経て東へ。スフィンクスは、その起源か?
伝来のルートは?
朝鮮半島を経て日本に来たのが、日本の神社で見られる狛犬。中国大陸から日本本土に来たのが唐獅子。中国大陸から琉球に入ったのがシーサーといわれている。
オスメスはあるの?
ライオンにはタテガミがあるが、メスにはない。シーサーには外見からはその区別がない。一般的には口を開けているのがオスと言われているが、地域によってはその逆との説もある。
魂(まぶい)入れはするの?
複数の制作者に聞くと、儀式的な「魂入れ」はしない。シーサーは完成して設置されると、自ずとその役割に目覚めると言う人もいる。

このサイトのシーサー関連ページは、
・4月3日はシーサーの日 ⇒ コチラから
・着せ替えシーサー⇒ コチラから

駐車場 案内碑と石獅子
駐車場 案内碑と石獅子
たまたま 銃弾の跡
立派なタマタマがあるので、この獅子は間違いなく男の子です 銃弾のあとです
石獅子広場 バス停のレプリカ
石獅子公園全景 バス停にある3分の2のレプリカ

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 富盛の石彫大獅子 県道507号線の富盛交差点を西へ。第二富盛のバス停手前の左に「石獅子⇒の標識」がある。その右は「ファミリーショップのはら」。その手前を右折し、あとは、地図をご参照。 


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