尚布里(しょうふり)の墓


布里の墓


尚布里は、第一尚氏五代尚金福王の弟で、第六代尚泰久王の兄です。尚金福の死後、1453(享徳2年)、王位を巡って尚金福の長男「志魯(しろ)」と戦となりました。叔父と甥の間での争いです。この戦いは、後世、「志魯・布里(しろ・ふり)の乱」と伝わっています。この乱で当時の首里城は焼失し、「志魯・布里互いに傷付き、倶に絶ゆ」と多くの歴史書には書かれていますが、布里は生き残りました。それを裏付ける証拠は、布里の位牌の底に、大里(越来間切)、富名腰、伊平屋、志堅原など、戦のあと布里が転々とした各村の名前が記されていたことです。また、「玉城村の文化財概要」によると、昭和38年に墓の調査が行われ、遺骨の蓋には、乱の11年後にあたる1464(天順8年)に58歳で死去とあるのが発見されています。

王の弟と王子の戦いで、どうして勝利した王の弟が逃げ回らなければならなかったのか、よく分かりません。志魯を討ったのですから、そのまま自分が金福王の後を継いで第六代の王になると宣言すればよかったと思うですが…。いろいろな資料を読むと、身分を剥奪され所払いになって首里から追放されたという説もありました。すると、誰が王の弟の身分である布里を所払いにしたのでしょう?

大和の徳川幕府は初代家康から6代家宣まで106年かかっているのに、第一尚氏はわずか48年で王が6人も入れ替わるという短期政権の原因は、絶対的権力者である尚巴志を失ったからでしょうか。第一尚氏は、不幸な短期政権でゆらぎはじめ、 ついには内部から崩壊し王国始まって以来の危機に瀕することになったのです。その原因となったのが、この戦いだったのです。志魯・布里の乱の後、第六代王には尚巴志の七男 尚泰久が即位することになりました。尚泰久もまさか七男である自分に王位が巡ってくるとは思っていなかったでしょう。 その尚泰久の参謀の地位にあったのが家臣の金丸です。その金丸は、この15年後にクーデターを起こし、第一尚氏を滅ぼして、尚円王と名乗って19代410年間続いた第二尚氏の始祖となったのです。

墓前の石柱に尚布里王子の名と並んで「うなざら」の文字も見えます。一緒に埋葬されているのは、布里の妻、うなじゃら真圭度金(まかとがに)と思われます。



富里のヒンプン 富里のヒンプン
尚布里王子並うなざら之墓とある 県道48号線沿いにある布里の墓

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