船越(富名腰)(ふなこし)グスク跡


船越集落の丘陵にあるグスクです。巨大な石灰岩の上部を利用して築城されています。できたのは14世紀中ごろといわれ、玉城按司の四男である舟越按司が築いたとも、三男糸数按司の長男が舟越按司として築いて移り住んだともいわれています。なお、船越の文字は、資料には富名腰、舟越の文字も使われています。読み方は、どの漢字でも「ふなこし」または「ふなくし」 と読みます。



船越城跡
船越グスク跡(この写真は南城市からお借りした)


巨大な石灰岩の上に、高さ1メートルほどの石垣が積まれていますが、この石垣には下の写真のように木の根が絡みついていて、時代を感じさせます。また、入口付近からはグスク土器や、輸入陶磁器などが見つかっており、船越グスク跡は平成6(1994)年に南城市の史跡に指定されています。グスク域内外には拝所や崖葬墓などが点在しています。

また、グスク内の地表に幅1メートルほどの亀裂がありました。地元の方は城の堀ではないかと言っておられましたが、幅1メートルでは、堀の役割がありません。むしろ、秘密の抜け道の方がミステリアスですが、とても目立つ亀裂ですので、抜け道だとしたら、すぐにバレてしまいます。何の役割もない亀裂なら埋めてしまいそうなものですが、600年以上経った今なお残っています。

奈良女子大の出田和久教授の「沖縄グスクの研究論文」に、この船越城の著述がありましたのでご紹介します。
船越グスクは、陵頂部の石灰岩塊上にあり、頂部は東西約12メートル×南北約25メートルの平坦面となっている。石垣の外壁面は南側と西側の一部に残るが,内壁はほぼ全体をめぐるように残っている。南東部に門の遺構が残っている。内部には幅約1メートル,深さ1~3メートルの岩の亀裂が3方に走り壁面に達している。 どうしてグスク内の亀裂を残しているのかには、触れられていません。

入口の案内板には、上記と重複するところもありますが、次のとおり記されています。
船越(富名腰)グスク(玉城村指定文化財(史跡):平成7年2月23日指定)

船越グスクは標高約100mの巨大な石灰岩塊の上部に築造されている。外壁は南側と一部西側に高さ約1.5m積まれ、その他の場所には見られず自然地形の崖面になっているが、内壁は南西部の一部を除いて、全体を囲むように野面積みで積まれている。城内からは遺物は確認されていないが、入り口付近から青磁やグスク系土器、褐釉陶器などが採集されている。
グスクの歴史については、14世紀中頃、玉城王の四男が富名腰按司としてグスクを築城したという説や糸数按司の長男が富名腰集落に移り住んだという伝承がある。グスク付近に城下村としての富名腰集落があったが、後に南側の併置に接した現在地(字船越)に移動したといわれる。グスクの南側の崖下一帯に岩陰囲い込みの石積み墓があり、さらに下方に山川之殿(やまがーぬとぅん)、クバウノ御嶽、富名腰巫火神(ぬるひぬかん)などの拝所が点在している。周辺の遺跡として、船越グスク南側の旧貯水タンク周辺に船越A遺跡、グスク西側一帯に旧集落跡である船越遺跡がある。
玉城村教育委員会 平成17年3月31日設置

グスクを降りたすぐ下に2基の香炉が設けられた崖葬墓があります。地元の方は船越按司の墓ではないかと言っておられました。さらに、その奥の岩壁には、数基の崖葬墓が点在していました。その中には『名嘉門中祝女墓』と記された崖葬墓がありました。地元の方に聞いたら葬られているのはお一人のノロだそうなので単独墓です(写真撮影に失敗しましたので、下の写真は沖縄放浪日記さんからお借りしました。感謝!)。ここから奥にも崖葬墓が続いていました。



船越城跡 / 船越城跡 /
石垣に木の根が絡みつく グスク内の拝所、二ヵ所あった
船越城跡 / 船越城跡 /
グスク内にある亀裂
船越按司の墓? 祝女の墓
船越按司の墓? 名嘉門中祝女の墓


地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 船越グスク跡 


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