ひめゆりの塔


ひめゆりの塔


「ひめゆりの塔」とは、沖縄戦で亡くなった ひめゆり学徒・教師の鎮魂のための慰霊碑のことです。上の写真で「ひめゆりの塔」は、中央右の高さ1メートルもない石碑です。 奥に見えている立派な石造物も慰霊碑ですが納骨堂で、塔と納骨堂の間に口を空けているのが伊原第三外科壕です。
太平洋戦争の末期、沖縄の人達は米軍の沖縄侵攻に際して日本軍に従事することになりました。 その際、軍が中心となって女子学徒隊に看護訓練を施します。 女子学徒隊は8つあり、その内、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師と生徒達で結成された「ひめゆり学徒隊」が、塔の名前にちなんでいるのです。
女子生徒と教師、合わせて240名、うち教師が18名だったそうです。当時、ひめゆり学徒隊以外にも白梅学徒隊・なごらん学徒隊・瑞泉学徒隊・積徳学徒隊・悌梧学徒隊・宮古高女学徒隊・八重山高女学徒隊・八重農学徒隊の8つの学徒隊(この部分は、Wikipediaより)が存在していました。

「ひめゆり学徒隊」の「ひめゆり」とは、沖縄県立第一高等女学校の学校広報誌「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌「白百合」を組み合わせた言葉「姫百合」が由来しています。植物の「ひめゆり」とは、関係ありません(HP「Find travel」より)。



ひめゆりの塔 ひめゆりの塔


上の写真:左は、『ひめゆりの塔の記』です。次のように記されています。
昭和二十年 三月二十四日島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員生徒二百九十七名は、軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。
戦闘がはげしくなるにつれて、前線から運ばれる負傷兵の数は激増し病院の壕はたちまち超満員になり、南風原村一日橋・玉城村糸数にも分室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜昼となく力のかぎりをつくして傷病兵の看護をつづけた。
日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜南風原陸軍病院は重傷患者は壕に残し歩ける患者だけをつれて、手を引き肩をかし砲弾をくぐり、包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。
南にくだった後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務を続けた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
六月十八日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌十九日第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げ込まれ地獄絵図と化し、奇跡的に生き残った五名をのぞき職員生徒四十名は岩に枕を並べた。軍医・兵・看護婦・炊事婦等二十九名、民間人六名も運命をともにした。その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最期をとげたのである。
戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により昭和二十年四月七日最初のひめゆりの塔が建ち、次第に整備された。ここに沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員十六名、生徒二百八名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。
乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。

上の写真:右は、仲宗根正善先生の哀悼の歌『いはまくら碑』です。
『いわまくら碑』は、学徒隊引率教師であった仲宗根政善氏が、第1回ひめゆりの塔慰霊祭(1946年4月7日)で、戦死した教え子を悼み、霊前に捧げた歌の碑です。

いはまくら かたくもあらん やすらかに ねむれぞといのる まなびのともは

『固いごつごつとした岩場で亡くなったのは、さぞ無念で辛かったでしょう。心安らかに眠って欲しいと学友たちは願っています。』という哀悼の歌です(現地案内板から)。

ひめゆりの塔 ひめゆりの塔
沖縄戦殉職医療人之碑 ひめゆり平和史料記念館
ひめゆりの塔 ひめゆりの塔
資料館前の千羽鶴 資料館前に植えられた"ベンガルヤハズカズラ"

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ ひめゆりの塔  なお、南部戦跡めぐりをしていると、慰霊塔の周辺に献花用の花を売る女性がいることがあります。そういう人の中には、なかば強引に花を押し売りしたり、お札を出すと、釣りがないと言って、もう一束渡して走るように立ち去る、ということもありますので、ご注意ください。


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