与那原良矩(よなばる りょうく)生家跡




与那原家は、多くの三司官(注1)を輩出した琉球王家の名家です。そのなかでも与那原良矩は歌人としても著名で、沖縄三十六歌仙の一人です。また、『沖縄一千年史』には、古来より有名な琉歌の歌人6人のうちの1人に挙げられています。

与那原良矩は、第二尚氏、第14代尚穆王〜第15代 尚温王の時代に、三司官の職を28年も務めました。

うつおとの たえだえなるは 小夜衣 月にねられぬ すさみなるらし
(宜湾朝保『沖縄集』より、「月下擣衣(げっかとうい)」と題して)

碑の立っている場所は、ゆいレール儀保駅のすぐ前です。往時の面影は何一つ残っていません。案内板がなければ、誰もが通り過ぎて行くところです。

現地の案内板には、次のとおり記されています(原文のまま)。

琉球王国時代の三司官(さんしかん)与那原良矩の生家跡。
与那原家は、馬良詮大浦添親方タ良憲(ばりょうせんウフうらそえウェーカりょうけん)を始祖とする馬氏小禄殿内(ばうじおろくドゥンチ)の分家で、大里間切(おおざとまぎり)(現南城(なんじょう)市大里)を領有する総地頭家(注2)であった。与那原良矩のほか、王国時代末期の三司官与那原良恭(りょうきょう)・良傑(りょうけつ)親子など、9人もの三司官を輩出した名家であった。
与那原良矩は1718年に生まれ、中国名は馬国器(ばこっき)という。1762年、進貢正使として中国へ赴き、1765年にその報告のため、鹿児島(かごしま)に上国した。1769年に三司官に就任し、1796年に辞任するまで28年間務めた。この間、王国の刑律典(けいりってん)『琉球科律(りゅうきゅうかりつ)』の編さんなどにも携わった。
道徳を重んじた人といわれ、教訓的な琉歌(りゅうか)を数多く残し、後に「君子親方(くんしウェーカタ)」と称された。また、和文学にもすぐれ、沖縄三十六歌仙(かせん)の一人に数えられている。1797年死去、享年80。

(注1)三司官(さんしかん)…琉球王国の宰相職のことで、首里王府の実質的な行政の最高責任者です。
(注2)総地頭(そうじとう)…琉球王国で親方の地位にある者が一間切を采地(領地)として賜った場合、総地頭と呼ばれました。惣地頭と表記することもあります。

地図をご覧になる方は ⇒ コチラから。 ゆいレール儀保駅の北側の階段を降りたところです。


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