辻(ちーじ)村跡(那覇市)


辻村跡


那覇の花街のあったところです。沖縄の方なら、辻村(ちーじむら)または、辻(ちーじ)と言えば、どんなところをさすのかご理解いただけるようです。江戸なら吉原、京都の島原と言うだけで花街と知れるようにです。沖縄の方言で「ちーじ」とは、「頂き」、「高い所」を意味します。

辻の花街に住む女性は「ジュリ」と呼ばれていました。漢字だと「尾類」という字が当てられ、琉球王国があったころ、17世紀の後半に各地にいたジュリが、「辻」・「仲島」・「渡地」の3ヵ所に住むようになり、明治12年に沖縄県が設置されると、ジュリには18歳で登録証(鑑札)が交付されたそうです。 その後、明治41年になって「仲島」・「渡地」の花街は廃され、「辻」に統合されました。

これにより「辻」は、政財界の要人、官公庁、教育界の指導者をはじめ、地元の商人などが出入りし、接待や宴会が行われたり、旅客が宿泊する場所ともなりました。ジュリは、これらの客をもてなし、安らぎを与えるために、料理や唄・三線(さんしん)、琴、踊りなどの芸事にも磨きをかけ、「辻」は、沖縄県下最大の社交場として「華やかな場所」となったのです。

ジュリの起源については、あまりよく分かっていませんが、15世紀以降、大和、唐や南蛮(東南アジア諸国)と交易を行った時代、中国からの冊封使(さっぽうし)一行や大和からの商人等をもてなした「ジュリ」が居たといわれています。その「ジュリ」が居た「辻」は、那覇市の西部にあり、現在でも辻1丁目から3丁目の地名が残っています。

そのように華やかで、繁栄を誇った「辻」も、昭和19年10月10日の空襲により消滅してしまいました。現在、「辻」には花街の面影を残しているところはありませんが、那覇三大料亭のひとつ「料亭那覇」がこの地区にあり、70年の歴史を伝えています(「料亭那覇」とともに三大料亭と言われた「料亭松之下」、「料亭左馬(さま)」 は、時代とともに姿を消しました)。近隣地域は歓楽街、風俗街としての要素が強く、ソープランドやラブホなどが集中しています。

なお、琉球王府時代より要人たちをもてなす「ジュリ」と呼ばれた遊女らが暮らし、独自の芸能・料理文化を発展させた辻村跡では、毎年、豊年と商売繁盛を願う「旧廿日正月(はちか・そーがち)豊年祈願祭」(辻新思会主催)があり、色鮮やかな衣装に身を包んだ女性たちが手踊り「ジュリ馬」など奉納舞踊を披露します。 私は、2度ほど華やかな舞踊を見るため出かけて写真を撮ってきました(下の写真のように、ジュリに扮した女性たちの列が延々と続きます)。ご覧になる方は、 ⇒ コチラからどうぞ。また、ジュリとして花街で暮らした上原栄子さん(故人)の「辻の華(時事通信社刊)」 については ⇒ コチラから



ジュリ馬祭り


下の写真の「辻遊廓開祖之墓」は、遊廓ができたころの遊女の遺骨を近年改めて葬ったもので、全部で4柱の位牌が並んでいます。どれもそれほど古いものではないようです。 一番左側にある位牌(写真:左)に、「うないみやらびぬ里」と書かれていますが、「うない」は、沖縄の言葉で、男性から見た「女姉妹」を意味し、「みやらび」は、漢字で書くと「美童 」で、同じく沖縄の方言で若い女性を示す言葉です。



辻開祖の墓 辻開祖の墓


地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 辻村跡 指定された駐車場はありません。この近くにあるユニークな公園「三文殊(さんもうじ)公園」については ⇒ コチラからご覧ください。


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