泊高橋(とまりたかはし)


古地図

⑥が泊高橋、①泊村、⑤チービシ、⑦美栄橋、⑨安里八幡宮、㉔崇元寺、㉚波之上宮


那覇市内に泊高橋という交差点やバス停があります。地名だと思っていたので、何の興味も持ちませんでしたが、琉球大学で古地図の講義を聞いたとき、教授が「ここが泊高橋で…」と言ったので、古地図に出てくるような由緒あるところなら調べてみようと思いました。

現地に行ってみました。案内板もありました。泊村にある高い橋で「泊高橋」でした。橋の名が、そのまま地名にもなりました。その橋は、沖縄の三大名橋のひとつに数えられるような名の知れた橋だったのです。今は、何の代わり映えしない普通の橋ですが、その名前の由来もユニークです。

「泊高橋の名前の由来と変遷(原文のまま)」
泊高橋は国道58号線の泊港上流部安里川河口に架かる橋です。
泊高橋の元の場所は今の高橋交番所側にあり、架橋年代は不明ですが昔は木橋だったと思われます。
1699年(元禄12年)石橋への改修工事が始まり、翌年1670年2月19日竣工しました。
石橋は橋の下を船が往来できるように中央のアーチが高く、3段の階段がある急勾配の橋でした。「泊高橋」の名称は橋脚を高くしたことによりそびえるように高く見えたため名付けられたといわれています。
泊高橋はのちに真玉(まだん)橋、比謝(ひじゃ)橋とともに、沖縄三大名橋のひとつに数えられました。
明治に入り人力車が導入されると、橋が急勾配のため通れなくなり、1905年(明治38年)頃、階段を取り払い、勾配を緩和しました。その後、1909年(明治42年)には上部をコンクリート舗装しました。
1934年(昭和9年)完全なコンクリート橋へ改修されました。しかしその後、沖縄戦により破壊され、戦後まもなく1952年(昭和27年)鉄橋に架け替えられました。 現在の泊高橋は58号線の交通量の増大により、1975年(昭和50年)に改修され、現在の橋となりました。

橋のたもとに歌碑が立っています。
「泊高橋に なんじゃじふわ落ち いちか夜ぬ開きて とめてさすら」寄贈 吉濵照訓
「なんじゃじふわ」とは銀の簪(かんざし)のことです。歌は、泊高橋に銀の簪を落としてしまいました いつ夜が明けて簪を探して、再び髪に差すことができるでしょか、という意味です。恋人と語り合っていた娘があやまって銀の簪を落としてしまったのを、連れの恋人が慰めるために詠んだというのが通説ですが、沖縄カルチャーウェブマガジンを引用させていただくと、「歌の解釈は諸説あり、男女の恋愛を詠んだとされる恋愛説。そしてもうひとつが、組踊「手水の縁」の作者としても有名な平敷屋朝敏の妻が詠んだとされる悲哀の説だ。朝敏が、琉球王朝の三司官に上り詰めた「蔡温」と対立し批判した文章を提出したとして、若くして処刑された。その後、朝敏の妻が断腸の思いで詠んだとされている。歌意は以下。「泊高橋でかんざし(夫や子ども、地位や名誉)をなくしてしまった。時が経てば、名誉が回復されるだろうか」。深い悲しみが伝わってくる琉歌となる」とありました。歌碑の寄贈者の吉濵照訓氏は、ネット検索によれば、元那覇爬龍船振興会会長で、一時中断していた那覇ハーリーの復活に尽力した一人だそうです。

なお、古地図は、チズアッチャー、首里那覇港図屏風から、破壊された橋は那覇市歴史博物館からお借りしました。



現在の泊高橋 破壊された泊高橋
現在の泊高橋 沖縄戦で破壊された泊高橋


地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 泊高橋 沖縄で一番、通行量の多い国道58号線の橋ですので、路駐は出来ません。


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