天妃宮(てんぴぐう)跡


上天妃宮


上天妃宮 上天妃宮


那覇市久米にある天妃小学校の一角に天妃宮の石門跡が残されています。王朝時代、この辺りは中国からの帰化人が集団が住んでおり、その影響もあって1424年頃に中国で航海の神とされる媽祖(まそ)がここに祀られるようになりましたました。

Wikipediaによれば、媽祖は道教の神で、実在した女性です。16歳で神通力を持ち、村人の病を治すなどの奇跡を起こし「通賢霊女」と呼ばれ崇められた。 28歳の時に父を航海で亡くしました。悲観した彼女は峨嵋山(がびさん)の山頂で仙人に会い、そのまま神になったと伝えられています。

当時は上天妃宮と下天妃宮(旧那覇郵便局跡)の二つの天妃宮がありましたが、現在残っているのは、この上天妃宮跡のみです。その天妃宮も、現在建物は無く、跡地には、天妃尋常高等小学校が明治32(1899)年)に建てられました。上・下の天妃宮は、それほど距離が離れいないのに、なぜ天妃宮が二つもあったのかは、よく分かりませんが、一説には、中国から渡ってきた帰化人の出身地が異なっていたとか、身分に差があったとか、違うグループだったということかもしれません。

上天妃宮跡の石門
文化財(市指定史跡)指定年月日:昭和52年4月8日
10世紀の後半、中国福建省甫田県(ほでんけん)という所に媽祖(まそ)と呼ばれ崇められていた女性がおり、吉兆を占うのに長けていた。その媽祖の死後、人々は廟(びょう)を建て神として祀るようになり、いつしか航海の安全を守ってくれる神として、中国南部の沿岸地方で広く信じられるようになり、当時の明の皇帝は媽祖に「天妃(てんぴ)」という称号を贈った。冊封(さっぽう)の船も、沖縄の船も天妃を祀り、出発する時や着いた時には、天妃廟(宮)に詣でた。
沖縄には14世紀の終わりごろにやってきたという?人(びんじん)三十六姓とともに、「航海を守る天妃」を祀る信仰が伝わったようだ。那覇には、かつて上天妃宮・下天妃宮の二つがあったが、現在は上天妃宮の石門だけになる。上天妃宮がつくられたのは、そこにかけられていた鐘に記されて年号から、15世紀半ばごろと考えられている。石門に続く石垣は、その積み方が御物城(オモノグスク)〈那覇軍港内〉や読谷村の座喜味城(ざきみグスク)の石垣に似ており、布積みからあいかた積みが用いられるようになるころのものと考えられている。

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 天妃宮跡 


  ナビゲーションはトップページにあります。

   TOPページへ

Copyright © 2015 ハイホーの沖縄散歩 
logo