天王寺跡と天王寺井戸


天王寺
現地の案内板の写真をcopy
天王寺石垣
天王寺のものと思われる石垣


天王寺跡と天王寺井戸は、龍潭通りを挟んでおり、少し場所が離れていますが、一緒にご紹介します。「天王寺」は、「円覚寺」「天界寺」とともに首里三ヵ寺と称され、尚家菩提寺の一つでした。第二尚氏初代国王である尚円王が首里城に移り住む前に住んでいた場所だそうです。下記の案内板にあるように、石垣以外、何も残っていません。

現地の案内碑には次のとおり記されています(原文のまま)。
天王寺跡
琉球王国時代の臨済宗の寺院跡。
第二尚氏王統の始祖尚円(しょうえん)が成化年間(1465〜1487)に創建したといわれ、尚円が王位に就く前の邸宅で、第三代国王尚真の生誕地とされる。後に、国王は円覚寺、王妃は天王寺、未婚の王子・王妃は天界寺に祀られたことから、円覚寺・天界寺とともに三ヵ寺と称される尚家の菩提寺(ぼだいじ)の一つとなり、国王の元服・即位の際には三ヵ寺を行幸するのが例となった。寺域は約700坪であり、末寺には建善寺(けんぜんじ)・広徳寺(こうとくじ)・蓮華院(れんげいん)などがあった。
1879年(明治12)の沖縄県設置後に尚家の私寺となったが、その後払い下げられ、仏像・神位(位牌)・梵鐘(ぼんしょう)などは円覚寺に移され、本殿である方丈殿(ほうじょうでん)は、1903年(明治36)に女子実業補習学校(後の島尻女子工業徒弟学校)の校舎として島尻郡小禄間切(しまじりぐんおろくまぎり)(現那覇市)に移築された。1933年(昭和8)に寺域の西半分(341坪)を日本メソジスト首里教会が購入し、会堂を建立した。1945年(昭和20)の沖縄戦後には、日本基督教団首里教会として現在に至っている。
現在は、首里教会入口と隣接する民家の後方に、天王寺の石垣が残されている。



案内板 案内板
龍潭通りにある天王寺の案内碑 天王寺井戸の案内板


天王寺井戸の案内板には、次のとおり記されています(原文のまま)。
天王寺井戸(テンノージガー)
首里三ケ寺のひとつである天王寺の井戸。
天王寺創建時、寺域に井戸がなかったため、この井戸を使い始めたのが始まりとされている。
大きなガジュマルの木が目印で、井戸は丸い筒型になっている。当蔵村の『村ガー』(共同井戸)として人々の生活用水にも利用され、旧暦9月9日『重陽の日』には、当蔵自治会によって健康や繁栄が祈願される。
天王寺敷地は、龍潭通りを渡った首里教会付近にあたり、首里教会入り口と隣接する民家の後方に天王寺の石垣が残されている。


 
井戸
天王寺井戸(平成27年3月に撮影したものですが、現在は、蓋の上にブルーの汲み上げポンプがついています)


地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 天王寺跡 片側一車線しかない龍潭通りに面しています。井戸は天王寺跡の通りの反対側、万松院に入る路地の入口右側にあります。


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